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親友を亡くした私にできること

私には友達がいない。というと嘘になるが、たとえばここに書いてあることをそのまま躊躇なく話せる友達はいない。だから仲の良い知り合いはそれなりにいることになるが、何を話そうかなと考えながら対峙する人物が大半であり、無言を楽しんだり、一緒に旅行に行ったり宿泊、寝食を共にするのが負担じゃないといえる人物は、残念ながら妻以外は皆無かもしれない。残念ではない。妻がいてくれれば十分だから。発言を撤回します。

友達なんてそんなもんだと思う。人間はわからないことだらけで、自分の心の中を伝えられるような人物なんていない。それでいいはずなのに、親友がいないことや友達が少ないことを憂う声は多く、私も今まさに、友達が少ないと自分のことを言っているから、もっと友達がいたらと願っている部分があると思う。

15年以上の付き合いになる親友を亡くしてしまった。その人物は機能不全家庭に育ち、いわゆる毒親に支配され、精神崩壊し、人生からドロップアウトしてしまった。死を仄めかす言動も何度もあったし、音信不通になってしまった以上、もう会えない可能性も覚悟しなければならない。

確か別の記事でこのことを書いていた気がするが、私が子供を持ちたくない、親になりたくないのは、親という存在が必ずしも良いものではない、親子という関係が必ずしも良いものではないと思うばかりか、悪い親子の例をたくさん見て、その影響で自分の大事にしていた仲間の複数を失ってしまったことが大きく影響している。両親は私をここまで普通に育ててくれたが、いくら自分が幸運だったとしても、そうじゃない親子の例を見すぎており、誰かが誰かを育てたり、誰かが誰かに影響を与えたりすることに、そもそもの恐ろしさを感じている。

私は親友がどういう状況になろうが、誕生日や季節の変わり目にメッセージを送ったり、旅行に行ったらお土産を送るなど、とにかく、つながっていることを重視した。ある日、何をしても返事がない時期が続き、突然、お土産が届いたので、お礼の連絡をすると、1年間、人生を立て直すから、何も連絡をよこさないでくれと、長々と、深夜に、力を振り絞って書いたかのような手紙が届いた。それが済んだらこちらから連絡するから、待っていてくれ、また会おうと書かれていた。

親子の問題は自分自身が納得できる結論を導かなければ解決しない。なぜなら、親が違うから。いくら私が励ましたところで、違う親に育てられ、その環境が子供時代の記憶を埋め尽くしている親友の苦悩を疑似体験することは不可能だ。だから、私にできることは、親友がこの問題の出口を見つけて、過去の自分と今の自分を分離して歩き出すのを待つことだけだと思っている。ちょっと気分転換して済む問題ではないし、一喜一憂するような小さなスケールの話でもない。肝心なのは、親友が人生を再スタートしようとするとき、物凄い長い時間を費やしてしまった分、孤独を感じることになるだろうから、その時に隣にいてあげられるようにすることだと思う。時間の溝を埋められる関係こそが、本当の友達なのだと思うからだ。

親友を亡くしたと書いたが、生きている可能性も否定できない。連絡が来るまで、私はどんなに苦しくても、生き続けなければならないと思っている。親友が再び人生の蓋を開ける時がくるかは定かではないが、その時に、変わらずに残っている景色があるのとないのでは、大きく異なると思うからだ。

誰もいなくても、俺がいるじゃん。ーそう笑って隣に立っていたいのだ。


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