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生産と消費のバランスが崩壊すると人生も崩壊してしまう

最近は、国家試験の勉強をしている。集中すべき時期なので、ほとんどPCでの動画編集や文章投稿、画像投稿を休んでいるか、予約投稿で済ませている。この記事も予めセットしている。

久々に、レシートのスキャンでPCを開いて、勉強の息抜きにブラウザを開いて、普段チェックしているものを見ようとしたり、BGM用の動画を流そうとPC内を巡回する。

不思議なことに、何をしていいのかわからない。ブラウザを開いていても、普段回っているはずのサイトに向かおうとする動きが鈍る。PCを前にして、何か「生産」する活動をしないとなると、一体PCで何をしたら良いのかわからなくなってしまい、その日はさっさと電源を落としてしまった。

インスタグラムにも色々な投稿をしているけれど、毎日テーマを決めて同じものを記録程度にアップしているだけで、他のアカウントを見ることも誰かをフォローすることもなく流れ作業のように終わっていく。スマホからインスタアプリを間違えて削除してからは、その毎日投稿もしなくなってしまい、結局インスタは放置したままになっている。

Twitterも同じく、予約投稿機能を使い、何か編集があるときだけチェックする。だから通知が溜まってしまう。情報収集すべきアカウントはすでに頭に入っているので、検索ボックスで検索して閲覧している。もはやグーグル検索に近い。

YouTubeも、予約投稿で自分で動画を公開しているにもかかわらず、他のチェンネルの動画は見ない。定期的に一通りの動画をチェックしているチャンネルは一つもない。

情報をインプットしたいときには、結局、参考書や本、普通のホームページを見てしまう。不特定多数のつぶやきや刹那的な感情、価値観の対立や自己主張が耐えないSNSは、見ているとつかれるし、何か自分がそれで得た気分にならないので、見る頻度が減っていく。テレビを完全に見なくなったのも、好きな番組があったのに、得たい情報に付随した余計なコンテンツが多すぎて、見る気が失せているためだろう。笑いを取るための定番のギャグ、ネタにするために自作自演したような偶然、そういう寒いものに、予定調和的な笑いやエンタメを感じることはなく、台本を読むだけの芝居に感動することがなくなった。感動のベクトルが変化している。

〇〇だから感動する、という軌道に乗ることがなくなった。式典、イベント、祭り…五輪や国民的イベントに対しても、熱が上がらない。それよりも、トーストが上手く焼けたとか、普段の車窓から新しいビルが見えた、ということ、未知の勉強をしたこと、そういうものに感動をするようになった。だから感動を感嘆として表現することがないから、無感動な人物に見えてしまうことがある。

手段を選ばず認められたい、認められたい、という、他人に依存した満足の指標を持つ人が一定割合いるとのことだ。そして、それがスマホなど、刹那的満足コンテンツの閲覧媒体への執着に波及し、目の前にある事物に対する無頓着と無神経を助長し、人間関係を崩壊させてゆくシナリオが記事から感じられる。万人に好かれたい懸命な意思が、誰からも好かれない結果を招いてしまう現代人の不幸な罠とも言える。

私は日記として運営するSNSをすべて削除してしまい、ある意味、営利目的でしかソーシャルメディアを使わなくなり、ちょっとアナログ人間に戻ったような気がする。家事や身の回りのことをするようになり、そこにある現実のものに関心が向くようになった。画面の向こうではなく、今そこにあるものに向き合う時間を意図的に増やしている。

何処に行くにも撮影のためとして、コンテンツを記録するのも、場合によってはもったいない。何もしないで散歩する時間も必要だろう。食事も、テレビやスマホを見ないで、孤独のグルメのように一人で味わって食べることも重要だろう。画面の向こうだけを自分の人生にしていると、画面の向こうにしか相手にされなくなり、画面の向こうに翻弄される人生になってしまうと思う。

そして、画面の向こうで起こっていることは、自分の意志に関わらずすぐに変化し、事実を確かめること、画面の向こうで生産されている背景を見ることができないので、真相がわからない。消費の怖さはそこにある。生産すればするほど、自分が生産したものなど、正確に消費者に伝わらないことを痛感する。同じように、自分が消費者になっているときに、生産現場や生産者の意図を安易に理解したつもりになることは危険なのだ。

ネットが普及したこと、もっといえば、SNSが普及したことにより、人間は他人の思想や言動に対し必要以上に干渉できるようになってしまった。世間が濃密だった時代から、希薄な時代になり、それがネットの普及で、オンラインの世界では、また別の世間・監視社会ができつつある。相乗効果的な良い面もある一方、仕入れる必要がない他人の情報を仕入れてしまい、それを追いかけることに時間が割かれてしまい、自分の人生が始まらないまま人生を終えてしまうなんてこともあるだろう。

小さなことでいえば、上記のように夫婦、親子間で、相手よりもスマホ(第三者の承認)が気になる事象があるが、極端な例をいえば、人が亡くなったときに、自分自身で気持ちの整理をせず、すぐにポエムをSNSに投稿して人の反応を求めるようなことが考えられる。嘘だと思う話だが、実際に、不幸の場面でこれをやっている人は少なくない。自分がどう考え、どう思うかよりも、他人がどんな反応をするかの方が優先事項になっている。子供が生まれても、喜びをじっくり味わう前にSNS、結婚式もSNS、家族旅行もSNSとなれば、子供の成人式もSNS、葬儀もSNSとなってしまいかねない。

画面をスライドさせて新しい情報に埋もれ、短いつぶやきに一喜一憂する行動は、感情の持続や保存を遠ざける。嬉しいことがあっても、次の情報に上書きされてゆく。

その情報、スマホがなかったら、手に入れることができただろうか。この基準で今自分が対峙しているものとどこまで関わったらよいか考えるのも、有効かもしれない。

私は、どんなに影響力のあるインフルエンサーや著名人がいようとも、妻が感じ、考え、話していることを軸に、ひたすら自分にできることをやっていくのみだと、いつも思っている。それだけはブレずにやっていきたい。

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