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「闘戦経」家村和幸

サブタイトル:武士道精神の原点を読み解く

世に「孫子」「五輪書」といった兵法書の解説本は溢れていますが、「闘戦経」について書いた本というのは寡聞にして聞きません。図書館で偶然見つけなければ、一生知らないままだったでしょう。

闘戦経は、孫子・呉子に対する批判的な立場から、大江匡房(1041-1111)が著したものとされています。結論から言うと、この「孫呉に対する批判的な立場」というのが曲者でして、世界中でスタンダードになるくらいの古典的名著に反すること書いてあるから浸透してないんですね。

例えば孫子に対しては「懼の字を免れざるなり」とあります。確かにそこから発生する戦術的な対策もあります。孫子が本質的にどうかという話は一旦措きますが。

じゃあこの兵書の何が優れているかということなんですが、一に国産の兵書として、日本の風土に沿った立場で書かれているということ。二に、それが故に上記の孫呉のような、「大陸的な物の考え方」との対比の資料として優れている、ということ。

よく「孫子」をビジネスの手法として参照している本がありますが、そもそもあれが国対国の殺し合いを前提に書かれている点を抜きにしても、技術的にそのまま鵜呑みにすることには疑問があります。ですが、「孫子」的な考え方を中国のビジネスの進め方として、一方の「闘戦経」を日本のそれとして、考えてみると彼我の差が見えやすくなるかも知れません。

特にそれは冒頭の一文に現れていると言えるでしょう。闘戦経では「武とは天地開闢の力である。天と地を別つ力が武である」という出だしから始まります。対する孫子は、「戦争とは国家の大事であり、生き死にのかかったものであるから重要である」という出だしです。「生き抜く」ということをもっとも重視しているのが孫子です。

対する闘戦経では、「武」を暴力や、相手を制圧する力、ではなく、「異なる性質のものを切り分ける力」と定義しています。そもそも争いごとというのは異なるものを一にせんがために起こるものなので、この定義で言うところの「武」さえあれば争いは発生しません。実に日本らしい、伸びやかとも甘いとも言える考え方です。

闘戦経は終始そんなロジックに満ちていて、兵書というよりは修身の書のような印象もあります。ですから、この解説本の著者も「武士道精神の原点」としたのでしょう。争うための書ではなく、心をまっすぐに保つために読む本です。そして、心をまっすぐに保つためには結局自分自身が強くあらねば不可能です。そんなことも「闘戦経」には書かれています。



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