読書会のために三島由紀夫『金閣寺』を読んだら、とにかく足ばっか気になった。
教養がないので、文学をほとんど読んできてあない。古典はもちろん、近現代文学も読んでない。三島由紀夫なんて、読んでいるわけがない。
しかし、国語科の教員として、有名な文学作品を読んでないのはどうかという思いがある。だから、仲の良い友人たちと読書会をすることにした。読書会をすれば、強制的に読める。
今回の課題図書は、三島由紀夫『金閣寺』である。
面白いかどうかは別として、私はとにかく読んでいて〈足〉が気になる。主要な登場人物のひとりである柏木が足に障がいを持っているからという話ではなく、柏木が登場するずっと前から、やたらと〈足〉に関する描写が多い(ように思う)。私は無知なので、そもそも『金閣寺』のあらすじも登場人物もまったく知らずに読んだ。金閣寺を燃やす話、程度の理解しかなかった。だから〈足〉が気になったのは、ほとんどテキストの力だ。
例えば序盤に次のような記述が見られる。
なんでわざわざ「徒歩で通った」と書くのか。そんなふうに少し引っかかりを持って読むと次のページにはこうある。
「駈足」が出てくる。なんでこんなのが必要なのかよくわからん。こういう違和感は、読むときに大切にすべきだ。
〈足〉に気をつけて読むと、有為子とのエピソードも気になる。語り手である「私」(溝口)は、村の有為子という女性を性的な対象として見ている。有為子は舞鶴海軍病院の特志看護師として働いており、朝早く出勤する。その出勤のタイミングを狙って、「私」は有為子の通勤路で待ち伏せしようとする。
〈足〉は、すぐまた別の記述として現れる。有為子を欅の根方で待ち伏せていると、
このあたりの〈足〉の記述は、小説の終盤の記述と対応している。
藪蚊に刺された〈足〉は、「私」が金閣寺の住職から預かった学費を使うため、遊郭に行ったときふたたび現れる。遊郭で「私」は、「私の足がみちびかれてゆくところに、有為子はいる筈だった。」(283頁)などと考え歩く。
また、「闇が」「道を開く」のも反復される。
まあもちろんこういうことは先行研究で指摘されていると思う。
しかし、この小説ではほんとうにやたらと登場人物が歩く。座る。座ったかと思えば立ち上がる。この反復がひたすらつづく。
この辺について論じた論文が読みたい。
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