遺書ではない(はず)
縋るものはない。
祈れる神だっていないし、助けてくれる人も医療従事者以外はいない。
自分を助けるために必要だったのは、あるいは結果的に自分を助けてきたのは、自身の努力のみだけだった。
羨ましかった。
純度100%の、ネガティヴな感情で。
病識のない人とか、医療従事者につらくあたる人とかを羨ましく思っていた。
それでいて頼る人を持ってる患者さんのことも。
正直にいえば、病気のこともろくに知らないし、薬の効能も飲み合わせも調べないくせにって思っていた。
学生時代の健康な友達はいるけれど、それでも不全感っていうものはわたしを襲った。
直近の人間関係とかストレスって関係するのかなって思ったりして。
ASDと公言しているのだけど、ASDのコミュニティでは「あなたは健常者だよね」と嫌味なことを言われたりするから……
チェーンリアクションのようにたくさん病院に行くのもつらい。
毎回待ち時間か何かのせいでへとへとになるし、なんのために治療しているのかわからなくなる。胃ろうでようやく食事を摂ることができる状態で、けれど意識ははっきりとしているという感じだ。つまり、延命治療の延長線上にわたしはいるのであって、「ほんとうには生きていない」
最近は疲れからか、自分の身体から自分の精神が遠ざかっている感じがする。
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靴を履く、という外界へ繋がるための通過儀礼をこなす時に、
飛び降りてしまおうかという考えが過って離れてくれなかったから、
ああ、そうじゃなくてわたしは、
感知されていない当事者のために生きなければ……
言語性優位者としてのノブレス・オブリージュとして語ってゆかなければ……
自殺という重要なトピックが単にその日の出来事として消費されない仕組みを考えなければ……
そう思って、わたしはパンクした。
死にたいなって思ったことのないひとのことが、強烈に羨ましい。
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