見出し画像

「前から失礼します」じゃないんですよ。

 やさしさとは、何なのだろうか。

 体感ではシベリアくらい寒い一月の大阪で、仕事をしながらそんなことをずっと考えていた。ずっと考えていたから、仕事の進みはびっくりするほど悪かった。だから、仕事帰りにSTARBUCKSに立ち寄った。「終わり良ければ全てよし」という言葉がある。私は、どんな日であれ、その一日をどのように終えるかに細心の注意を払っている。仕事に集中して良い進捗を生めた日は、その余韻で一日を締めたいからさっさと帰ってさっさと寝る。仕事があんまりだった今日のような日は、良いエピローグを記すことで良い一日を捏造する。エピローグにSTARBUCKSを選んだのに、語るほどの理由は持ち合わせていなかった。人間とは夜にSTARBUCKSに行きたくなる習性の生き物であり、それを商売にしたのが「STARBUCKS」というだけのことだ。

 その日は会社の同僚との遭遇を避けたくて、会社の近くではなく梅田のSTARBUCKSに向かった。スマホの画面を見ると、時刻は19:30。夜というカテゴリの中では、早くも遅くもない時間だった。角を曲がって見えてきたSTARBUCKSの白字の看板に安心感を覚えた。そういえば、スターバックスの名前には「星の〜〜」という意味があるのかと思っていたのだが、アメリカの小説家Herman Melvilleによる長編小説『Moby-Dick; or, The Whale』(日本では『白鯨』という題で知られている)の登場人物で、捕鯨船Pequod号の一等航海士である「Starbuck」に由来するらしい。私は「モビーディック」と聞くとワンピースの白ひげが連想されるような少年の脳で、作品以上に出世してる「Starbuck」はすごいなぁ、なんて。ぼんやりと考えていた。

 スマホをポケットに入れ直して店内に入ったところ、運良く一人分だけ席が空いていた。STARBUCKSで一人分の席を取るのと二人分の席を取るのでは、難易度に大きな差がある。私は、自分が「夜にSTARBUCKSに行きたくなる」習性の生物の中でも「夜に一人でSTARBUCKSに行きたくなる」個体であることに、しみじみと感謝を覚えた。

 どうでもいいことを考えている間に席が取られることがないように、私は鞄に入れて持ち歩いていた『無人島には水と漫画とアイスクリーム』をテーブルに置いて列に並ぶことにした。平和な国ニッポンといえど、席を確保するのに鞄をそのまま置いておけるほどの図太さは、私にはなかった。列に並び、自分の番を待つ。一人、二人、三人と注文を終えてカップを受け取っていく。あ、あの人キッシュ頼んでる。珍しいな。「お次のお客様、こちらどうぞー」。いよいよ待ちに待った私の番だった。

店員さん「ご注文お決まりですか?」
わたし「えと、ホットコーヒーのトールサイズで。」
店員さん「かしこまりました、他にご注文は大丈夫ですか?」
わたし(無言で手を振り、大丈夫ですのサイン)
店員さん「ありがとうございます、お会計420円になります。コーヒーこちらでお渡しするので、少々お待ちください。」
〜間奏30秒(この間にPayPayの画面を用意する)〜
店員さん「お支払いPayPayでよろしいでしょうか?」
わたし(無言でうなずく)
〜QR読み取り3秒〜
店員さん「ありがとうございます。こちらレシートお渡しいたします。お待たせしました、コーヒー前から失礼します……

 「前から失礼します」?

 一時停止。私には、店員さんの発した言葉の意味が理解できなかった。「前から失礼します」とは、前から失礼するということなのだろうか。私の目の前にいる店員さんの頭の中では、前からコーヒーを渡す行為は失礼という認識なのだろうか。では失礼にならない方向とは。

簡単のため、コーヒーを渡す方向を「前後上下左右」の6方向で考えてみる。

 まず、上から渡すケースについて考えてみた。上から液体が落ちて来るような状況はテレビのバラエティ番組くらいだろう。8年連続で「保護者が子供に見せたくないテレビ番組」に選出されたロンドンハーツが脳裏に浮かぶ。いや、最近のテレビではヴァイオレンスな表現に規制がかかるため、もはやテレビでも上から液体が落ちてくる光景を見ることができなくなってきた。いわんやSTARBUCKSをや。STARBUCKSで上からコーヒーを渡す行為は、明らかに失礼だろう。トップバッターで失礼-1グランプリ優勝まであり得る。令和ロマンじゃないんだから。

 次に下。下については、2つのケースが考えられる。一つは、足元の地面付近から渡す方法である。これはドラクエのマドハンドよろしく地面から生えた手があれば、残念ながらSTARBUCKSで働くマドハンドはいない。仮にいたところで、失礼であることに変わりはない。もう一つ、店員さんが昇竜拳のように顎の下からコーヒーを渡すパターンも存在する。しかしながらどちらかというとこれは広義の前な気がするし、前から渡すのであればわざわざ昇竜拳を打つ必要はない。無駄な行いである。

 続いて後ろ。後ろについては上下ほどトリッキーな手を用いなくてもコーヒーを渡すことができそうではあるが、人の背後を取るのはシンプルに失礼である。

 最後に左右について考えていこうと思う。その日私が立ち寄ったSTARBUCKSでは、レジに向かって左の方にスタッフが通る通路があった。したがって、わざわざ右に回り込んでまでコーヒーを渡す選択肢は、前から渡すと見せかけて昇竜拳を打つのと同じくらい無駄な行いである。さて、残るは左だ。左からコーヒーを渡される場面について想像してみたのだが、特に失礼な点は見当たらなかった。バラエティ色もなく、マドハンドも不要で、不意打ちでもなく、昇竜拳ほど無駄な行いでもない。それどころか、わざわざ店員さんがカウンターから出てきてコーヒーを渡すというフローは、丁寧な接客のようにも思えてくる。

 しかしちょっと待ってほしい。この場合、顧客(=私)が求める接客はどのようなものだろうか。その時の私が求めていたのは、一刻も早く休息をとることだった。ということは、だ。左からの受け渡しでは、店員さんがカウンターから出てくる数秒のタイムロスが生じてしまっており、顧客のことを深く思うとこれは失礼な接客にあたるだろう。よくよく考えてみれば、Louis Vuittonで服を買ったわけじゃあるまいし、そんなうやうやしく接客されても恥ずかしいだけである。

 かくして、前からコーヒーを渡すことは決して失礼なんかではなく、最前の選択肢であることが証明されたのだった。ほんとに、「前から失礼します」じゃないんですよ。

 紙製のカップを受け取った私は確保していた一人分の席に戻り、コーヒーを一口飲んで静かに目を閉じた。「終わり良ければ全てよし」という言葉がある。私は、どんな日であれ、その日一日をどのように終えるかに気を配っている。しかし、その日の私はわざわざ梅田のSTARBUCKSまで行ったのにも関わらず、いい気分で一日を終えることはできなかった。「たかがコーヒーを渡す方向くらいのことでグチグチと考え事をしているようでは、まだまだやさしい人にはなれないよ。」と、陰で誰かに言われているような気がしたからだ。


よかったら以下のアンケートにご協力ください!
https://forms.gle/vJQPkYRuGn57nbS97

この記事が参加している募集

今日の振り返り

いただいたサポートは、新NISAで増やします。