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揚げ足とりから校正者へ

昨日は忙しくて、とうとう連続投稿をストップしてしまった。
残念。今日からまた新しいスタートである。

私は小学生の頃、そろばん塾に通っていた。
私の町に住む多くの子どもが同じ塾に通っていた。
授業をする教室は2部屋しかなくて、いつも込み合っていた。
塾には順番待ちをするための漫画本が常備されていた。
新刊の少女マンガや少年マンガを読むのが楽しみだったが、
私は「7つのエラー」という絵を見比べて間違いを探すクイズが大好きだった。今でも週刊誌などのその類のものが大好きである。

私は現在、編集者として校正の仕事をしている。
これはおそらく「間違いさがし」の延長である。
私は子どもの頃から人の話の揚げ足取りで、
「人の揚げ足をとるんじゃない」とよく母に叱られたものだ。
人の勘違いや言い間違いをすぐに指摘して、相手に嫌な思いをさせていたにちがいない。
間違ってるんだから、それを言っても私は何も悪くないといい気になっていたのである。

エディタースクールで校正を指導してくれた先生は、
「校正の仕事をすると性格が悪くなるわよ」と笑っていたけれど、
私はもとからそういう資質を持っていたわけだ。
文章を書いた本人がまったく気にしていないようなことを、
「ここはどうしましょうか」などといって、
ちょっとした表記ミスや、漢字のまちがいや、
ひらがなとカタカナと漢字の表記をそろえるなど、
読むだけならどーでもいいようなことまで
わざわざ筆者に正して整えていく。
「どっちでもいいじゃない」ということだらけなのだが、
それが私の仕事なのである。
本当に性格が悪い人でなければできない仕事である。

書籍や雑誌など印刷されたものは、書いたものが形として残り、それが一時ではなく、長い時間残り続ける。中国や日本の文字は墨で書かれ、1000年以上前のものさえ現存している。
テレビ番組で襖にはその下張りに古い古文書が使用されているという話を聞いた。明治時代に貼られた襖なら、その数十年前の時代の不要となった和紙が使用されているのである。実はこれにさまざまな情報が残されていることがあり、最近では時代を知る手掛かりとして研究されることもあるという。
私たちの記憶はすぐに忘れてしまったり、思い違いをしてしまったり、自分勝手に改ざんされたりもするが、体験を細かく正確に書き留めておけば、それはそのまま長く残るのである。

私は13歳のときに書いた詩を今も手元に残している。それはとても恥ずかしいものだが、まったく別の人格をもった少女の作品として、おとなになった私は揚げ足をとることもなく、それを読む余裕を持てるようになった。
作品はもはや私からは離れ、こちらも人格というか1つの存在として今を生きているようだ。

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