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本当に護りたいものは何?【『リベラルの敵はリベラルにあり』を読んで】

はじめに

 国会議員の政策顧問を務めた経験もある弁護士、倉持麟太郎氏の『リベラルの敵はリベラルにあり』(筑摩書房、2020年)の感想を述べる。

 内容は、現在のリベラリズムの様相を記述したうえで、民主主義を再生させる手立てを考える、というものである。「リベラル」と呼称される政治的思想・立場がどのように変遷しているかを、「アイデンティティ」というキーワードやインターネット社会という視点から描写し、そこから浮き上がる民主主義における問題点を「法の支配」や「カウンター・デモクラシー」といった解決策を検討している。タイトルは、リベラルの価値から生まれた事象によってリベラルが揺らぐということと、リベラルを自称している人々(たとえば一部政治家)ですら「人間は間違うもの」「であるから法の支配を重視する」というリベラルな価値を体現できていないということの、2つの意味があると考えられる。

 本書はかなりの豊富な議論が書かれていて、そのすべての感想を述べることはできない。ということで、その中でも特に面白いと思った争点に絞っていくつか述べたいと思う。


アイデンティティ政治のネガティヴ面を知る

 アイデンティティ政治とは一般的に、社会的に不利な立場にあるアイデンティティを持つ者の政治的な利益を代弁する運動のことを指す。たとえば、ジェンダーや性的志向、人種や民族、障碍の有無などである。このような「弱者」の政治的な救済を目指すというアイデンティティ政治は、一見よいもののように感じられる。

 しかし、本書で著者は、アイデンティティの政治に対して否定的な見方を提示する。

人々の心にぽっかりと穴があき、依存対象を探す個人が極めて狭い範囲で集団化する。限定的で一部の集団の尊厳を承認することは、人々の普遍的な尊厳を承認するよりも、はるかにコストがかからない。ここに目をつけたのが、「政治的なるもの」だ。細分化された集団に対して個別の承認を与えることで「票」を獲得し、権力の正統性を調達する。もちろん、アイデンティティの承認を求めてナルシスト化した個人にとっても、お手軽に自尊心を調達できることになるからウィンウィンだ。かくして、「政治的なる場」はナルシストたちがセラピーを受ける場として機能し始めた。これがアイデンティティの政治だ。(p.62-63)

「政治的なる」とは、国家をめぐる政治の中心にいる権力・権威といった存在のことを指し、いわゆる「永田町的な」というような感じである。また、ここでいう「ナルシスト」は、アメリカの歴史学者・社会評論家のクリストファー・ラッシュの言葉で、自己について自らが決定をすることができ、その決定を素晴らしいと思ううえ、それを認めてくれる他者を必要とする人間のことである。アイデンティティの政治においてアイデンティティを求める人々を「ナルシスト」と引用して表現するように、著者はアイデンティティの政治に否定的な主張をしているようにみえる。

 表現はともかくとして、これは一理ある。具体的な実名を明言することは避けるが、上記のような「女性」「障碍者」といったアイデンティティを持った者が、政治や社会に対して「承認」を強く、執拗に、過度に要求し、ときに排他的になって賛同しない他者を攻撃する、という光景を時々目にするからである。またそれらを絡めとろうとする政治的勢力も、容易に思いつくことができる。

 とはいえ、現状としてこうなっているとしても、アイデンティティの政治をこうであると強調しすぎるのもいかがなものか。経済的な再分配といった再配分も含めた、広い意味での社会保障によって「弱者」を救済するということは、国家をめぐる政治の主要なテーマの1つである。同時に、そうしたイシューは当事者以外は見えにくく、彼らが積極的に主張することが悪いとは言い切れない。したがって、アイデンティティの政治の負の面をクローズアップすることが万が一、こういった課題の軽視につながるとしたら、政治の機能の大きな部分を失ってしまうことになる。もっとも、著者はアイデンティティの承認自体というよりも、少数者の中の一部による過激な排斥や、「政治なるもの」が票の為に「動員」しているだけで実際に法制度化を真剣に目指していないのではないかという疑念があることについて批判していると思われる。

 それとは別に1つだけ、些細ではあるが、この項目について疑問に思っていることがある。それは、ジェンダー(おそらくフェミニズムなどであると思われる)はこの「少数者のアイデンティティの政治」に該当するのかということである。著者は「承認」を求める勢力を、普遍と対比される「一部の集団」「限定的」「細分化・個別化」と表現している。また、こうした現象は初期構想のリベラリズムが想定するほど人間は「強く」なく、社会の価値観をバラバラにしたことで生まれたというように考えられる。しかし、人間の約半数は「女性」というアイデンティティをもっており、女性の権利向上を目指すことが「細分化された集団の承認」といわれると違和感がある。そして、前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波書店、2019年)[過去に感想文を書いた]でみたように、フェミニズム運動は古くからあったものであり、リベラリズムが想定する自己決定意識と合理性を持つ「強い個人」像の崩壊以外にも運動の根源はありそうである。もちろん、「強い個人像」に耐えられずアイデンティティを探そうとしてフェミニズム運動に参加した者もいたであろうし、排他的手法や社会問題解決に繋がっていないことへの批判は、著者に同意する。


具体的な解決策を提示している

 リベラリズムやデモクラシーについて論じた書籍は数多くある。私も本書を含めて何冊か読んでいる。それらではリベラリズムやデモクラシーの欠陥や問題点が指摘され、解決策が提示される。とはいうものの、その解決策は漠然としていて、実際としてイメージできないということもしばしばある。「議論」「対話」「連帯」が重要であると述べられ、それには私も賛成するが、それが具体的にどういう状況なのか、どうすれば実現できるかについてはイマイチ説得力が欠けているときがあった。

 ところが、本書はすこし違う。選挙が絶対的な位置にあると考える民主主義を相対化するカウンター・デモクラシーが現状の打開策として語られる。そこで、政治家や法律家、研究者だけでなく当事者を含む国民も巻き込んだ議論が行える、プラットフォームが必要であるとしたうえで、次のように事例を述べている。

それぞれが、自分の居場所から、自分のできる範囲で、権利や自由について自分なりに考えればよい。自分の社会的立場を利用して何か政治的なイシューを考えるきっかけを提供すればよい。それぞれが持っている聴衆やアクセスしているマーケットが違えば違う程、多くの人に届くし、それがなるべく「永田町的」で「政治的なるもの」の磁場から遠かったり関係ない方がよい。これらすべてがカウンター・デモクラシーを形成する。(p.340)
そのためには[市民自らカウンター・デモクラシーを実践するには]、シビック・テックの力が必要だ。シビック・テック(Civic Tech)とは、シビック(Civic:市民)とテック(Tech:テクノロジー)をつなげた造語である。市民自身が、テクノロジーを活用して、行政サービスをはじめとした「公」の問題や、さまざまな社会問題を解決する取り組みのことを指す。(p.316)

インターネットによる政治的議論は私も関心がある。著者はこうしたネット上のプラットフォームを紹介する。私はTwitterなどのSNSでの議論に注目していたが、それ以外に専門のプラットフォームがあって一定の成功を収めていたということは興味深い。

近時シビックテックの訪欧論であるクラウドローで頻繁に言及されるのが、台湾で構築されているオンライン討論プラットフォーム「v台湾(vTaiwan:ブイタイワン)」だ。(p.316)
シビックテックによるカウンター・デモクラシーに位置づけられる新たな試みとして、一般社団法人PMI(Public Meets Innovation)の取り組みが参考になる。彼らは、パブリックセクター(官僚・政治家・弁護士・政策関係者等)とイノベーター(スタートアップやベンチャー経営者、テクノロジー技術者等)がつながる新しいコミュニティを提供している。いわゆるミレニアル世代を中心に、社会が抱える様々な分野での課題に対して、イノベーションの可能性と社会実装を議論する場の構築を試みているのだ。(p.319)

 また、シビックテックの紹介だけでなく、著者自身の体験からもカウンター・デモクラシーの実践例がでてくる。国会議員と市民を交えて安全保障問題などについて議論をする「コクミンテキギロン☆しよう」に筆者も参加したという。さらに、この左派の参加者が多かった通称「コクギ」に対し、保守陣営の運動として、小林よしのり氏の「ゴー宣道場」も紹介される(ただ、欲を言えば、政治的なイデオロギーがそれこそ(レッテル貼りかはともかく)「左派」と「保守」のように異なる人々の中で合意形成がみられたイベントはなかったかということが気になるところである)。

 このように、リアルな場所でも政治的な議論が行える可能性をみて、インターネット上だけではない、他の方法も少し気になるようになった。ミニ・パブリックスなどであろうか。具体的な事例を見ることで、さらに想像が膨らんだ。

 カウンター・デモクラシーと同じく、リベラルデモクラシーを機能させる手段として「人の支配」から「法の支配」への転換をするべきであるということも論じられた。そちらも「たしかに!」と思う部分が多いので、詳しくは本書第五章を読んで欲しい。


「はじめに」がすばらしい

 本書は冒頭に16ページ分「はじめに」という部分があるが、それが非常に良いと感じた。というのも、ここの文章が、まさに本書全体の要約となっているのである。

 本書は、問題意識こそ明確であるが、それについて論証する過程で、専門的な議論が出てきたり、反対に多様な視点からの分析がなされたりするなど、それぞれの章に骨があり、読むのに少々エネルギーを要する。そして各章で議論を深くまで掘っていくので、全体の構成や、今読んでいる部分が全体のどこにあるかなどがわかりにくくなってしまう恐れがある。

 ところが、「はじめに」ではじめに全体像を把握したうえで各章を読み進めていくことで、どのように議論が進んでいるのかを見失わない。読者にすっきり確実に読ませようとする工夫として、「はじめに」の内容はすばらしく、私は感動した。


おわりに

 「リベラル」「アイデンティティの政治」「法の支配」「カウンター・デモクラシー」などと聞くと、小難しい印象を抱く人もいるかもしれない。しかし、本書の著者は、抽象的な概念を何とか普通の人にもわからせようとする気概に満ち溢れている。そのために、本音で問題点を指摘し、具体的な事例も紹介しながら、詳細な展開を披露していく。もしかすると、この本自体が健全な民主主義のための努力なのかもしれない、と思うほどである。

 倉持麟太郎氏は、山尾志桜里議員(当時民進党)との不倫疑惑があるとされた人である。その真偽は不明であるが、そういった疑惑があるから、あるいは不倫をしたのであるから、彼の政治的主張は聞かない、というのはリベラルの態度ではないであろう。少なくとも、本書の中の議論は情熱にあふれていて、著者はリベラルや民主主義に対して真摯に向き合っていた。リベラルを自称する人もそうでない人も、政治に関心のある人もそうでない人も、全員に読んで欲しい一冊である。

[引用内での[]は意味を分かりやすくするために付け加えたもの。]

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