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ネット上の島宇宙の解消を目指す【『#リパブリック』を読んで】

はじめに

 アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンの『#リパブリック インターネットは民主主義になにをもたらすのか』(伊達尚美訳、勁草書房、2018年)の感想を述べる。

 本書は、ソーシャルメディアを中心とする近年のインターネットの状況を分析したうえで、民主主義にどのような影響をもたらすかを考え、それに対する処方箋を提案する、といった内容になっている。


エコーチェンバーとサイバーカスケード

 本書では、「エコーチェンバー」という概念が登場する。エコーチェンバーとは残響室のことであり、封鎖的な空間で似た言論が反響することで、特定の考えが増幅されてしまう様を喩えている。

 著者は、インターネットはまさにそのような状態であるとしたが、それは実際のソーシャルメディアの様子を見ればすぐ納得できる。Twitter上では、「ネトウヨ」からはじまり、(そう呼ぶべきかは措いて)「ツイフェミ」「アンチフェミ」など、さまざまな「残響室」が存在し、それぞれで似通った意見を繰り返し浴びせ合うことで、確信を強めていく人々を簡単に見つけることができよう。このように、現在のインターネットにはエコーチェンバーが頻発している状況であると記述できる。

 そして、エコーチェンバーは民主主義的な政治過程においてネガティヴな影響を及ぼすことを指摘した。

エコーチェンバーは、たとえ暴力や犯罪行為のような事態を引き起こさないとしても、実際の統治にとってはるかに大きな問題を生む。最も重要なのは、エコーチェンバーがひどい政策を生んだり、よい政策へと意見を集約させる能力を劇的に低下させたりしうる点である。(p.16)

よい政策のためには熟議が必要であると考えられるが、エコーチェンバーが乱立した状態では熟議は到底かなわない。いわずもがな、多くの人の意見を反映・集約することが「よい政策」に繋がるのではという前提がある。エコーチェンバーによって個々人の意見が偏り、他の考えを持つ人間に対して排他的になると、まさしく分断が生じ、成熟した議論の末にできる政策を構想することが困難になってしまう、ということは、実感として想像できる。

 上記のような状況は、「サイバーカスケード」というキーワードでも表現される。サイバーカスケードとは、同じような考えを持つ者が凝集することで、極端で閉鎖的なコミュニティが生まれてしまうというものである。

カスケードはますますソーシャルメディアによって生み出されている。カスケードは特定の製品、映画、本、アイディアへの強い関心を育てる、隔離された共同体の内部で起こる。テロリスト、反逆者、革命家はカスケードを引き起こして、それを利用しようとする。カスケードはしばしばはるかに広い範囲に根を下ろして、(たとえば)同性婚の権利、独裁政権にたいする反乱、国のEU脱退、新しい大統領、大人気の新型携帯電話を実現する一助となる。(p.133)

凝集性のパワフルさから、「同性婚の権利」「独裁政権にたいする反乱」のように、上記でいう「よい政策」にも近い結果を起こす可能性もなくはない。とはいえ、現実を見た通り、デマや過激な思想を伝染させてしまっている。

一連の意見に四六時中さらされることで、ときにはサイバーカスケードの結果として誤りや混乱を招く可能性が高い。またこのプロセスが既存の意見を定着させ、嘘を広め、過激思想を助長し、共通の問題で力を合わせにくくなるという点で、社会全体にとって危険である。(p.182)

 2020年のアメリカ大統領選挙の際、ジョー・バイデン氏の当選がほぼ確実となっても、不正選挙やトランプ氏の再選を主張する者が、日本でもTwitter上でよく見られた。彼らの中には、バイデン支持者はおろか、トランプ支持者であったがバイデン氏の当選を認知した者すら攻撃していたアカウントも散見された。デマや偏った情報をもとに発言していた者もおり、それはまさにエコーチェンバー効果やサイバーカスケードの結果であるといえそうである。

 以上のように、インターネットのソーシャルメディアでみられる、とりわけ政治的議論の分断の様相が概念として記述された(簡単に記述できるようにした)点に、本書の意義がある。そして、そのエコーチェンバーやサイバーカスケードといった現象が、政治的な議論を民主主義的な政治が目指すものとは別の方向に導きうるということは、火を見るよりも明らかでる。


「残響室」に抗う手立て

 本書では、第9章「提案」で、インターネットにおける民主主義の危機的状況に対する解決策が提示される。その中で、私が特に効果的であると思ったものについて議論したい。

 まずは、反対意見のリンクを貼るというものである。

特定の見解を示す情報を提供するサービス提供者は、見解が大きく異なるサイトへのリンクも貼るかもしれない。保守系雑誌『ウィークリー・スタンダード』のサイトが左寄りの意見を特色とするリベラル系雑誌『ネイション』のアイコン表示するという非公式の取り決めへのお返しとして、『ネイション』はサイトに『ウィークリー・スタンダード』のアイコンを表示することに同意するかもしれない。このアイコン自体は何かを読むことを誰にも要求しない。たんに異なる見解を参照できるかもしれない場所があることを示す合図を、読者に提示するにすぎない。(p.305)

これは、有効そうである。エコーチェンバーに足を踏み入れてしまいそうであるが、まだ入りきっていない人を引き戻す可能性がある。また、もうすでに浸かってしまった者に対しても、そのリンク先を見ないとしても、少なくとも自分とは異なる意見を持つ人間がいるということを訴えかけることはできる。エコーチェンバーの中にいると、自分たちの意見が絶対的であると思い込んでしまうが、それを断ち切る道が残されるのであれば、有意義である。

 問題は、記事の発行元などがそれをするかということである。ネット記事やサイト自体が特定の色に染まっていて、他の意見に見向きもしないような態度であるとしたら、この解決策は少し難しい。もっとも、Twitterなど、大きなプラットフォームの中に様々な島宇宙が存在するような構造のサイトでは、そのサイトを運営する企業が一肌脱げば少しは効果がありそうである。実際に、反対意見を貼るまではいかなくとも、記事がツイートされている場合、それをリツイートするときにそのサイトを開かずにしようとすると「まず記事を読んでみませんか」と出ることで、むやみに拡散することが防がれようとしている。そもそも、有名な配信者に対しては、リプライや引用リツイートによって反対意見が書かれることもしばしばあり、そこで建設的な発言を見つけることができれば、考えが変わるとまではいかなくても、宗教のような絶対性は回避できるかもしれない。

 その他、プラットフォームのデザインに関連して、私が本書を読んで思いついた手軽な対策としては、TwitterなどのSNSで「おすすめ」などのサジェスチョンに異なる思想を持つ者や趣向の違う発言をしている者を入れる、トレンドなどの自分の関心とは関係ないところで複数の視点からニュースを紹介する、などがある。ユーザー最適化によってできた「デイリーミー」とはあえて逆のことをすることで、自らとは異なる価値観を持つ者と触れる機会を用意できないかと考えた。


熟議ドメインの可能性

 もうひとつ、面白いと思った「提案」がある。それが、「熟議ドメイン」である。前述した提案は、現存のシステムに何を加えるかに注目していたが、こちらは、プラットフォームを新しく作ってしまおうという感じである。

新しいウェブサイト、熟議民主主義ドットコム(deliberativedemocracy.com)について想像してみよう―deliberativedemocracy.orgでもいい(どちらもまだ使われていない。確かめた)。このサイトは民間組織が簡単に作成できる。ここを訪れれば、サイトが目指す目標と内容についての総合的な説明が見つかるかもしれない。このサイトは雑多な意見を持つ人々が人の話を聞き、発言するように促される場だと誰でも理解するだろう。ひとたびこのサイトを訪れたら、あなたはたとえば国の安全、関連する戦争、市民権、環境問題、失業、外交問題、貧困、株式市場、子ども、銃規制、労働組合、その他たくさんの話題を表すアイコンをクリックして好きな話を読み、(そうしたければ)議論に参加できる。(p.287-288)

 私の観察の範囲内では、ソーシャルメディア上の不毛な紛争・小競り合いは、言葉足らずであったり断定的であったりすること、前提を共有されていないこと、複数の争点が混然一体となっていること、が原因であるように思われる。このような問題を解決するために、字数制限をなるべくなくすこと、根拠を貼るシステムや事前の説明、すっきりしたスレッドによる論点の明確化など、プラットフォームごとデザインし直せば解消されそうな部分もある。本来、社会問題や言説は慎重に論じるべきであり、そのためにはできるだけ細かく論点を分け、是々非々で考えることが必要である。そのためのじっくり議論する風土とシステムを構築したいが、Twitterなどのソーシャルメディアはその目的に作られていないので、熟議ドメインを作ろうということになる。

 上記のような熟議ドメインを構想したとき、ひとつ残念なところをしいて挙げるとするなら、日常から生まれる不満や疑念を社会問題に昇華する回路が薄くなってしまうことである。私的な領域から政治を考えるヒントを探すことができることは、ソーシャルメディアで政治に関する議論を行うメリットのひとつであると考える。熟議ドメインとしてもとから「熟議をする場所です!」と銘打って議題も細かく専門分化していくと、参入への精神的障壁が高くなってしまい、生活の中から疑問を投げかける隙は無くなってしまう。であるから、Twitterなどの現行のソーシャルメディアでの問題提起を熟議ドメインの争点に組み込めるかということが課題になりそうである。

 上記を含め、本書で語られる提案は、意見の内容で規制/補助をするのではなく、あくまでも人々の意識に呼びかけるような仕組みづくりをすることに注力している。そのため、効果は決して大きい物ではないのかもしれないが、湧き上がる活発で多様な議論によって政治を作っていくということでは、熟議民主主義の精神を汲んでいると感じる。


おわりに

 本ブログでは扱いきれなかったが、著者は規制や政策に関して、アメリカ合衆国憲法を民主的熟議を擁護しているという形で解釈し、「自由」の制限を認めた箇所があった。これを日本ではどのように適用できるかを考えるのも意味があると思われる。

 本書は、今まで自らが感じてきたインターネット上での政治的議論の様相の記述の「答え合わせ」のような本である。ネット上での議論に関心がある人、分断の発生を細かく知りたい人におすすめしたい。

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