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不可能な対話を超えて【『ネトウヨとパヨク』を読んで】

はじめに

 松下政経塾の卒業生で、自ら塾を経営しながら執筆活動を行う物江潤氏の『ネトウヨとパヨク』(新潮社、2019年)の感想を述べる。ネット上で極度に右翼的あるいは左翼的な発言を繰り返す「ネトウヨ」「パヨク」の生態について、自らの取材も含めて論じている。

 私はインターネットの政治的議論について関心があるが、「ネトウヨ」や「パヨク」に限らず「過激な」発言をするアカウントは、相手と会話が成立していないことが多いと感じる。そのようなことがなぜ生じて、どのように対処するのがよいかを考えるために本書を手に取った。


対話可能性で定義

 インターネット上の議論、もとい言い争いには、「○○はパヨク」「ネトウヨは氏ね」など、互いを「ネトウヨ」「パヨク」であると断定している様子がよくみられる。こうした「レッテル貼り」は、多くの場合相手を罵るために用いられ、本来の意味は曖昧であったり、人によって異なったりする。

 本書の著者は、以下のように定義づけをする。

では、「保守・リベラル」と「ネトウヨ・パヨク」をどのように区別すべきか。簡単に言えば、対話可能かどうかで分類してしまえば良い、というのが私の考えです。つまり対話不能であれば後者と認識されても仕方がないということです。逆に言えば、「対話可能であればネトウヨやパヨクではない」ということです。そして対話可能かどうかは、議論のルールを守れるかどうかで判定できると思います。(p.29)

 この定義は適切であると考えられる。「ネトウヨ」や「パヨク」というのはある種侮蔑的な表現であるから、ある一定の基準に満たない人間を非難する意味合いになる。そして、対話ができないことは、議論のテーブルについていない(つくつもりがない、あるいは能力がない)ことを意味するから、少なくとも思想の内容よりかは非難の対象になりやすい。そう考えると、この定義は適切でわかりやすい。

 また、この定義は、規範的な意味も持つ。インターネット上の議論で、「対話ができる」ことが重要であることが強調されるのである。筆者は対話ができないなら非難されても「仕方ない」としている。つまり、この定義を採用することは、対話ができなければいけないということを是としている、前提にしていることになる。

 この対話可能性で定義するやり方は、他にも当てはまると思われる。たとえば、「フェミニスト」と「ツイフェミ」である。フェミニストとは一般には、女性の権利が男性よりも制限されていることを前提に、男女平等な社会を目指す者のことを指す。フェミニズムについては古くから議論があり、一定の理論や実証が存在する。ところがTwitterには、そのフェミニストを標榜していながら、まったく対話をする気がないであろうアカウントも散見される(いうまでもなく、Twitterには正真正銘の「フェミニスト」もいるが)。そんな中、インターネット上でフェミニズム的な主張をする人を「ツイフェミ」と揶揄する人がいるが、「ツイフェミ」を非難する意味で使うのなら、私はこうした対話ができない人のみを「ツイフェミ」と呼ぶべきであると考える。これは、「議論においては対話が重要である」としたうえで、それができない人のみを侮蔑する目的で使うとした、本書の定義と符合する。

 インターネット上に限らず、政治的な議論を行う場合、議論のルールを守って、「対話」をすることが第一条件である。対話可能性による定義は、そのことを再確認する。そしてそれは、議論ができる人なら思想に関わらず尊重する姿勢につながる。


ネトウヨやパヨクが与える影響

 対話不可能なネトウヨやパヨクは、『進撃の巨人』のガビよろしく、自らの主張が絶対的に正しいと思い込んでいる。そしてその主張をインターネット上で繰り返していると、大きな影響力を持ってしまう

本書冒頭で、ネトウヨやパヨクは「対話不能な人」と広く定義しました。もうすこし幅を狭めて言えば「強い政治的な主張をもつ、対話のできない人」です。こうした人たちは自身の主張を頑なに変えない一方、他者への影響力が皆無に等しかったため、放っておけばよい存在でした。しかし、無力であったはずの彼らは、ネットの世界に入った途端、力を持ちます。主張に著しく説得力が欠けるという致命的な欠点が補われるからです。それどころか、論理が皆無に等しい断言であるため影響力を増すという、奇妙な逆転現象が起きています。(p.85-86)

 こうした、ネトウヨやパヨクの発現と影響力の増加は、インターネット上であるから生じた気もする。インターネットでは本書にもあるように「島宇宙」が形成され、各ユーザーが自らの心地よいコミュニティのみに参加し、エコーチェンバーのようになる。そして、TwitterやYouTubeのコメント欄など、多くは書かずに短文でコミュニケーションをする場において「断言」が繰り返されることで、さらにそれぞれの確信を強めていくようである。

 インターネット上で影響力を増していくだけでなく、実際の公的な政治過程においても無視できなくなっている。かつて朝鮮人・韓国人に差別的な発言をすることで知られていた「在日特権を許さない市民の会」の会長をしていた桜井誠氏が、2016年と2020年の東京都知事選挙にて、約11万と17万票で両方とも5位という、健闘をしてみせた。ここには、やはりインターネット上での「ネトウヨ」も含めたネット保守からの人気も影響したと考えられる。

 そして、本書には、ネトウヨやパヨクが中高生に対して影を落としているという内容も書かれている(第5章を参照)。私自身もかつて、ネトウヨに傾倒した、とまではいかなくても、彼らの主張を興味深く見ていた時期があった。当時の私は、同時にネトウヨでない人の言論も見聞きしていたため、「なぜ同じ事実に対してこんなに言うことが違うのか」という疑問に抱き、そこから社会科学の分野に興味を持つに至った。他の人の意見に耳を傾けたことでメタ的な疑問が生まれたのである。しかし、そのままネトウヨの島宇宙に飲み込まれてしまう中高生もいるかもしれない。一度特定の主張が絶対的に正しいと思い込んでしまうと、そこから抜け出すのは困難である。本書では中高生を「真っ白な」と表現しているが、そのようにまだ知識や経験が薄い人間にネトウヨやパヨクは影響を与えてしまう。


どのようにすれば対話できるのか

 ネトウヨやパヨクといった対話ができない人たちが「有害」であるとしても、彼らを排除してよいのかということになる。民主主義的な政治を営むことを志向する以上、どんな意見にも耳を傾け、対話する気がない人にも対話を試みる必要がある。

 筆者は、ネトウヨやパヨクと対話をするには、ユーモアが必要であるとする。

合理的且つ論理的な主張を繰り返すだけでは、ある種の人々の溜飲を下げるネトウヨやパヨクの主張に太刀打ちできません。のんきなようにも聞こえますが、こんなときだからこそ、魅力的なレトリックやユーモアの力が必要ではないでしょうか。(p.215)

これは名案である。同じ土俵に立っても、対話ができないから、暖簾に腕押しである。そこを、ちょっと異なる視点から、すこし違う表現方法で伝えたら、案外対話の活路が見いだせるのかもしれない。(「ユーモア」的な意味で)面白いことを言っている人は、ちょっと話を聞いてみようと思うのであろう。

 1つ苦言を呈するならば、実際にこの方法で対話ができた例が知りたい。筆者は、本書の執筆のために実際にネトウヨやパヨクの人とインターネット上で対話を試みたそうである。その結果はほとんどが失敗に終わった。そこで、ユーモアの力を試してみてほしかった。実際にやった例が見られれば「自分もこうして対話してみよう」となるが、このユーモアの力の議論は3ページほどで終わってしまう。また、「ユーモア」の内容もすぐには思いつかないので、お手本を示してもらえたらなおよかった。

 ネトウヨやパヨクの人々と対話ができるかというのは、つまるところインターネット上で島宇宙同士で対話が可能か、というところに行きつきそうである。多くの人にとって政治的な議論が見られる最も身近な場所がインターネットである一方で、インターネット上では政治的な議論はできないのではないかとする者もいる。私個人は、インターネットでの有意義な政治的議論を効果的に拡大する方法が正直思いつかない。少なくとも、政治的な議論をするには、Twitterなどの字数制限はないほうがよいと思われるが。


少々脱線が多い…?

 本書は、ネトウヨやパヨクの分析が主な内容となっているが、傍論や余談のような節や段落が散見される

 第3章は、ネトウヨやパヨクの主張が結論ありきであり、論理付ける必要のない主張で、だからこそ「最強」であるという内容であった。しかしそこで、「結論さえない人々」というのが出てくる。彼らは、確固たる理念を持たずに、その場の面白さだけで動いているような人々である。ただ単に楽しむために被災地の支援事業をやっているような人々に代表される。ネトウヨやパヨクは、そういった人々なのかといわれたらそうではなく、結論だけある人々である、ということが重要なはずである。

 同じく第3章では、政治家が孤独であるということも厚く述べられる。ネトウヨやパヨクの文脈からは、政治家は従来は孤独であったが、インターネット上で断言を繰り返す人々のところに行けば簡単に称賛の声が集まる、ということを述べる流れである。ところが、その「従来の政治活動の孤独」に多くの具体例や紙幅を割いた割には、それをネトウヨやパヨクがどう変えたかという議論はさらっと終わってしまう(先ほどの桜井誠氏が東京都知事選挙に立候補したことは、本書では詳しく書かれていない)。

 第5章は「「真っ白な中高生」に迫るネットの主張」であるが、大学入試が様々に対策され、教育改革がうまくいかないことが述べられる。終章でも同じく、「知識偏重の大学入試を変えること」が述べられる。ネトウヨやパヨクが中高生に影響を与えてしまうことはわかるが、それが教育制度の良し悪しや大学入試の性質とどう関係しているのかがよくわからなかった。しいていうなら、知識を覚えるという現行の教育では、主体的な「ネットリテラシー」のようなものが身につかない、という主旨なのかもしれないと考えられるが、「真っ白」とはまさに知識や経験に乏しい状態のことで、基礎知識がなければリテラシーもなにもない(著者が実際に次の節で政治思想などについて教えることを構想している)。なんにせよ、本書で教育制度の問題点をじっくり語った理由がよくわからなかった。

 第6章は、「ネトウヨやパヨクの終着点」として、二・二六事件や、あさま山荘事件に関係した植垣康博が紹介された。たしかに、これらの事件とネトウヨやパヨクは、自らの主張が正しいと信じて疑わない点など共通点がある。しかし、これらの「終着点」か、すなわちネトウヨやパヨクから二・二六事件やあさま山荘事件のような事件が生じるかは分からないし、これらの共通点以外の、たとえば今にもネトウヨやパヨクが暴力的な事件を起こしそうだというような結びつきはそんなに載っていない。

 本書は新書であり、また著者は研究者ではないから、仕方ないとは思うが、話の本流とどう繋がっているのかがわかりづらい部分があり、読んでいて少し読みづらいとは思った。


おわりに

 インターネット上では様々な議論があってよい。ところが、ネトウヨやパヨクのように、対話が成立しない人もいる。どのようにすれば対話が成立するのかは、詳しくはわからなかったが、ネトウヨやパヨクがどのような影響を与えているかについては想像ができた。

インターネットは政治的な議論をする場所になりえるのかということについての関心がさらに増した。民主主義についてのインターネットの功罪や、インターネット上での社会問題についてさらに考えたいと思った。同時にインターネットで成立している(数少ない?)議論にも注目していきたい。

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