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現実に作られ、現実を作る【『メディアリテラシーとジェンダー』を読んで】

はじめに

 マスコミュニケーションを研究する社会学者である諸橋泰樹氏の『メディアリテラシーとジェンダー 構成された情報とつくられる性のイメージ』(現代書館、2009年)の感想を述べる。(マス)メディアのジェンダー規範に関わる言説を、メディアリテラシーの視点から分析するという議論が載っている。

 本書は、メディアをジェンダーの視点で読み解いたことに関するいくつかの論文を集めたものである。たとえば、女性雑誌、テレビゲーム、バラエティ番組、新聞記事、報道番組である。


メディアリテラシーの精神

 筆者は、メディアリテラシーは以下の2つのテーゼが重要であるとする。これらは、ある章で明確に記されていたが、それ以外の章にも一貫している態度であると思われる。

メディアリテラシーでは、「メディアは構成されたものである」という第一のテーゼが非常に重要である。(p.159)
メディアリテラシーの重要な第二のテーゼは、「メディアは現実を構成する」である。(p.170)

これらの2つのテーゼは、サブタイトルの「構成された情報とつくられる性のイメージ」にも対応している。メディアは、特定のメッセージを伝えるために恣意的に「構成される」ものであり、かつそれによって社会の中のジェンダー規範といった現実を「構成する」ものでもある、ということである。

 これは、ジェンダー論的分析以外にも役立つ視点である。たとえば、ある新聞社は、政権に対して厳しい態度をとる傾向があるとする。それを知らないで、かつその新聞だけを読んでいると、ひどく政権を批判するような立場に立つであろうし(それ自体が悪いわけではない)、逆もまた然りである。メディアがどのように作られているかを知ることで、バイアスから相対的に自由になり、水平的に物事を考えられるようになる材料がメディアリテラシーなのではないか。


「叩く」ことが目的ではない批判的な視点

 ジェンダー論とは、社会の中にある現象を、人間によって作られた「男女」の観念によって説明する理論である。たとえば、国会議員の男女比が偏っているという事実があって、それはなぜかを社会の中の男女観を媒介して分析をする。私は、こうした視点は興味深いと思う。

 他方で、その現実を「問題」と捉え、解決しなければならないとする立場も存在する。たしかに、政治や労働の分野での女性の進出、共同参画は重要であるから、そういった批判もなされればならない。また、クオータ制や就業慣行などの制度的な改革も必要である。ところが、どこまでが「問題」であるかというのは少々主観的なところもあり、「そこまでする?」と思うこともしばしばある(『お母さん食堂』など?)。他の人がジェンダー規範を生産する(と思われる)事実の批判をする議論をすることは構わないし、場合によっては必要であると思うが、私自身がそれを面白いかと言われれば、少々疑問が残る。

 本書は以下のような態度をとる。

いったいに、私たちが「女性らしい」「男性らしい」と感じているものごとの多くが、こうやってパッケージとして構成され商品化されて日夜提示されているものだとしたら、私たちが当たり前と思って日々を生きている=ジェンダー実践している、女性らしい/男性らしい役割、服装やしぐさやことばとは、一体何なのでしょう。「女性らしさ」「男性らしさ」を”自然に”生きているつもりの私たちは、メディアや他者のまなざし、期待、規範や伝統など社会・文化・歴史的な要因によって「生かされている」のかもしれません。(p.20)
「性というつくりごと」について気づきを与えてくれ、自分のふるまいをも見直す恰好のテキスト(読み解きの素材)が、メディアです。そんなメディアリテラシーの視点で、「現実」を不断に構築してゆく文化権力であるメディアの創り出す「意味」=価値について考えて行くことで、これまでにないものの見方、世界観、そして知的刺戟が与えられることでしょう。(p.22-23)

特定のジェンダー観を、メディアなどを通して無意識に内面化している可能性が高い(ので、メディアリテラシーが重要である)、とまでしか言っていないのである。

 これは、私にとっての必要十分のジェンダー論である。前述したように、メディアが特定のジェンダー観を提示していると指摘したうえで、であるから「けしからん」「男女差別である」「規制するべきである」と述べる者もいる。しかしその考えは過度に表現を規制する恐れがあるし、そもそも特定の価値を表象していたからといってなぜ「けしからん」のかの論証はあまりされない。それよりも、見る側の備えとしてのリテラシーを拡充しようというほうが効率的で合理的であると思われる

 それを知ったうえでどうするかということは各人に任されていると思うが、私は他人に対して「男性/女性なのだから○○しろ(するな)」と言わないことを心がけたい。「男性/女性が○○をするのは当たり前(あるいは変)」と考えたとしても、それはメディアによって「つくられたイメージ」であることが多いからである。


ゲームに表象されるジェンダー観

 具体的な事例の中で、もっとも関心を持ったのは、テレビゲームの章である。著者は、女性は年齢が上がっていくにつれてゲームをする数が少なくなっていくことと、女性が「性的に」描かれていることに嫌悪感を抱く女性が少なくないことに触れたうえで、以下のように締めくくっている。

テレビゲームをはじめとして、電子メディアは男性のユーザーが使うものという前提でハード、ソフトとも男性が作っているために、男性文化から排除されてきた女性は参加しづらい面をもつ。女性は、知識情報の取得や娯楽の機会を奪われていき、メカ操作のためのスキル習得から遠ざけられき、やっと扱えるようになったと思ったらその中身は自分の性がこんな風に見られ・扱われ、語られていることに驚かされるのだから、早々に逃げ出すのは無理からぬことだ。(p.110)

男性がゲームをするのは普通であるが、女性がするのは変わっている、のような意識がゲームの制作に関係しているし、またそういった意識、をゲームが再生産しているという。そしてそれは工学を好む人間の性は男性の方が多い傾向にあるなどの現実に繋がってくることも指摘される。まさに、メディアが現実によって構成され、現実を構成するという例に当てはまる。

 また、ゲームの内容にもジェンダー観が入り込んでいるようである。「強さ」「勝利」の志向が社会から推奨されている男性は対戦格闘やスポーツゲームを好みやすいのに対して、「やさしさ」「育み」が期待される女性はロールプレイングや恋愛・育成シミュレーションを好むという。これは実感と少しは一致する。そして、著者が指摘した通り、性的魅力があるキャラクターも、心なしか女性キャラの方が多い気もする。

 ただし、繰り返すようであるが、著者は、上記のように分析したからすぐさま「男女差別だ!」「けしからん!こんなゲームはない方がいい!」「署名運動をしよう!不買運動も!」とはならない。現実としてもメディアの特性を論じて、それをわかることでリテラシーを身につけましょうということを主張しており、ゲームを作ったりプレイしたりする者の権利を制限しようとしているわけではない。


時代の「進歩」を測る

 一方で、テレビゲームの分析の段階で、実感と離れていると思われるところもある。

また、男性の「おたく」的のめり込みは、学究的(凝り性、蘊蓄、職人芸などにつながる)ということもあって周囲は寛容だが、女性にとってはそのように一つのことに血道をあげることを快く思わない文化が存在することも挙げておこう。(p.95)

 これは本当であろうか?私の観察の範囲内では、男女ともにオタクと呼ばれる人は多いし、それに対する寛容さや風当たりは男女で大きく異ならない(むしろ、しいていえば男性オタクへの偏見の方が強い)と思われる。

 また、ライフサイクルの中のゲームのあり方に関する記述にも少し疑問がある。

おそらく男性は、勤めに出ても、結婚しても、子どもができても、テレビゲームをやる時間的余裕があり、また男性がテレビゲームに夢中になっていても許容される文化がある。それに対して女性は、「いい若い女」が一人でゲームに向かうことは、少なくとも男性に対してよりは周囲が不寛容であり、むしろ生身の人間関係やレジャーの方に興味が向く方が「健全」であるとのまなざしがある。(p.95)

 周囲が男性よりも女性に対しての方がゲームをすることに不寛容、というのは本当か。女優、タレントの本田翼氏は、ゲームが好きなことで有名である(Google検索で「本田翼」打ち込むと、予測で「ゲーム」が上位に来る)。グラビアアイドル、コスプレイヤーである伊織もえ氏も、ゲームが実況配信をするほど好きであるが、人気を誇っている。世間から批判的な目が浴びせられがちな芸能人ですら、ゲームをやっていても人気が保たれる(むしろ増えることも?)ということが普通にあることを考慮すると、一般の女性に対してゲームをすることを相対的に許容しない雰囲気がどれだけ存在するかというのは疑問である。

 もっとも、実際にゲームをする時間があるかどうかに関しては、時間的・金銭的事情に左右されるため、職業に大きくされそうである。たしかに、男性・女性に就く職業に偏りはありそうであるが、女性だから男性よりも趣味の時間的余裕が少ないかは不明である。

 前述のように、ゲームを好むかどうかということにはジェンダーバイアスがあるといってよさそうであるが、その要因の1つが周囲の(しかも積極的に「不寛容」な)まなざしであるという主張はにわかには信じがたい。本書は2009年に出版されたが、現在は2021年ある。つまり、著者が当時調査して本書(に掲載されている論文)に書いた状態から、この十数年でゲーム(を特に女性がやること)に対する社会の印象が変わったということは考えられないであろうか。その他のデータも少し古いかなと感じるところもあるが、現実に当てはまるかを考えるのもよいし、歴史として捉えて現在と比較するのもよい(そもそも、このような意識や文化をどのように調査したのかということはあまり詳しくは書いていないので、そこも気になるところではある)。


おわりに

 私は本書を読んで、ゲームのジェンダーバイアスについてもっとも関心を持ったが、その他にも雑誌や新聞、テレビ番組などさまざまな題材について載っている。であるから、多くの人にとってのとっかかりになりそうである。

 現実によって構成され、現実を構成するというメディアリテラシーの視点は、ジェンダー論に限られるわけではないが、ジェンダー論と親和性がある。男女平等の為にジェンダーフリーな社会を目指す者も、差別は良くないにせよ男女に差はないとするのは無理があると感じる者も、既存のジェンダー観がメディアによって構成されている側面があるという点を知ることは、有意義であろう。

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