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#263 マゼランはなぜ死亡した?

コロンブス、バスコ=ダ=ガマとともに紹介されるマゼラン。
航海の途中で死亡してしまったため、「マゼラン一行が人類で初めて世界一周をした」と含みを持って記述される。マゼランはなぜ死亡したのだろうか。

1519年、スペイン国王の命を受けて5隻237人で出航したマゼランは、翌年に南アメリカ大陸南端の海峡を発見(後にマゼラン海峡と名付けられる)、ヨーロッパ人としてはじめて太平洋を横断する。
その際に大きな嵐に遭遇することがなかった。マゼランは幸運を喜び、その海を「平穏の海」と呼んだことから、後にマール・パシフィコ=太平洋と名付けられた。

1521年、マゼランは太平洋の西端にある島々に到着した。その島々は後にスペインの皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と名付けられた。

最初にセブ島に上陸したマゼランは、先住民に対して高圧的な態度に出る。
友好関係を結ばないならば武力行使も辞さないとして、キリスト教への改宗を迫る。マゼラン艦隊の武力に恐怖を感じた人々は、セブ島の首長を含めて約500人がキリスト教への改宗を余儀なくされる。

マゼランはセブ島の対岸にあるマクタン島の住民にも改宗を迫る。
そこに立ちはだかったのが、マクタン島の首長ラプラプである。

要求を全面拒否されたマゼランは、冷静さを失いわずか50人程度の手勢でマクタン島へ上陸する。待ち構えていたラプラプは、周辺の島の援軍もあって約1500人でこれを迎え撃つ。

多勢に無勢、当時の最先端兵器だった火縄銃での応戦もむなしくマゼランは討ち取られた。
マゼランを破ったラプラプは、現代でもフィリピンの英雄としてあがめられ、ラプラプの銅像は人気の観光スポットとなっている。

マゼランの死後、フィリピンを出航した一行は喜望峰をまわり、1522年にスペインへ帰港。人類初の世界一周を達成した。

この時の船員は18名。マゼランを含めて252名が死亡したことになる。
死因はフィリピンでの戦闘だけではなく、アルゼンチンでの部下の反乱、
長い航海でのビタミン不足による壊血病の蔓延など、多岐にわたる。

フィリピンはその後ポルトガルの植民地となり、皮肉にもキリスト教が普及することになる。現代もキリスト教徒の多いフィリピンだが、マゼランを倒したラプラプは今もなお英雄として崇められている。

【目次】

【参考】


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