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「答え」などなく、「完了」もない、学び。

このnoteというところのエディタは使いやすいですね。とても気に入りました。黙々と入力して改行するだけでも楽しくなります。道具がよいのは、いいですね。いろんなことがしたくなります。

Twitterに書いてみたのですがどうも上手にできないので、こちらに文字を移そうとおもいます。なので以下はTwitterに書いたこととほぼ同じです。
要は、私はこれだけ宗教というものとつきあいが長いのに、どうもただの一度も、不可思議な現象や、祈ったら病気が治った、とかのような、物理的な変化に遭遇したことがない、ということと、私、というもの捉え方、のような事柄です。

よく、宗教、というような話になると、なんだか用語の解説のようなことになる場合があるようです。あるいはお金にまつわる話や、知人の誰それは、のような話、も定番でしょうか。
ですが、少なくとも千年以上前から今も伝えられるなにか、とか、人の行い、であるならば、なんだか、単語の意味や経済構造や、あの人は、とか、そんなどんどん変わっていくような、覚えれば済むような、その日そのとき、その時代の話、で済むことが本質だとは、私には思えません。

ですから、私の感覚では「仏の教えとはこうですよ」とか、「キリスト教ではこうですよ」、みたいなことが最初から出てくるならば、興味の持ちようもありません。いきなり言われても、ふむふむと言う顔をしつつも内心は唖然、というのが普通です。
そしてさらに、困りごとを解決できる祈祷や儀式とか、祈ったら治るとかならもはや全く私にはわからなくなります。少なくとも私はそういうものの意味や実在を感じたことも見たこともありません。残念ですがそういうものはすべてフィクションの世界のことだと私は思います。

ですが、ひとには「祈祷したら大丈夫」を求める部分があるようです。
あるいは、なんらか不可思議な現象を見たと思うと、容易になにかこれまで信じなかったことを信じたりするようです。
つまり、そんな危うさをもっているのが「ひと」である、ということになります。その危うさは、私にも、あなたにもあります。その実在は、私の気持ちの中のこととしてよくわかります。

これが、ひと、の一つの本質だと思います。
「すがりたい」「楽したい」あるいは「怖いことから逃れたい」そしてそれを自分に「してもよい(すがってもよい)」と判定する理由探しをいつもしてしまう、ひとは、自らのそういう部分から逃れられません。

でもせめて、少しでもマシになるには。言い換えると、少しでも気持ちを楽に、後悔を少なく、惨めさを少なく、少しでも堂々としていられるようになるには。
それには、そんな愚かで恐ろしい自分であるという事実を思うことで、せめてときどき、そんな自分なのだから、と思って少し行動を変えてみる。それは相当現実的な手法な気がします。なにせ、自分の意志でおこなえるのですから。

浄土真宗ではこの考え方を大事にしています。逆に、例えば、祈祷、という概念はありません。だから幸運を呼ぶナントカとか祓うとか封じるとかの概念もありません。
だから例えばお葬式の帰りに「清めの塩」という概念もありません。そもそも浄とか不浄という概念がありません。
なのでお化けも、祟りも、呪いも、幽霊も、ありません。

ですが確実に存在し、逃れられない、恐ろしい怪物は実在します。
それは「私」です。
自らの醜さ、愚かさ、ずるさ。そんな自分の姿を知る私は、私自身から逃れることはできません。

どんなお化けよりも恐ろしい、自分というものの愚かさ、浅はかで欲深く惨めで、更に生まれる後悔や過ち。どんな祈祷をしてもだめです。弱いものから奪い、都合のよいことだけをつなぎ合わせて「正しい!」と言う。そんな自分の本性に向き合い少しでもマシになりたい(なれないのですが)。
お金を積んでも、一晩中祈っても、なにをしても、消えようも治りようもない私の本性は、せめて、それを自覚して意思の力で抑える努力をするしか対処の方法はありません。

そんな愚かな、ひと、という存在を親鸞は「凡夫」(ぼんぶ)と呼びました。親鸞自身も、私も、あなたも凡夫です。

ひとり残らず、皆、凡夫です。その意味で我々は皆等しく、上下も位もありません。いっそ「いや私はこんな立派な、こんなことをわかっている」というようなひとがいれば、それこそ更に病の深い凡夫っぷりでしょう。ですが自らを徹底的に凡夫であると自覚して俯くことからこそ救いがあるはずです。

そんなの自分に厳しすぎるよ、そんなのできない、そう反射的に言う声が聞こえます。私の中から聞こえます。それは、私が思っていることです。ですが、少しでも楽になりたい、正直でいたい。立派でなくても、すごくなくても、私は「ありたい私」でありたい。「そんなの厳しすぎるよ!」という声は、正直な気持ちです。ならばそれは大きな手がかりです。

日々後悔や、罪悪感や、ついた嘘を覚えて次のごまかしに準備をするような、そんな苦しさから解き放たれたい。それには、本当の私、を思う必要があります。それはとても苦しく、つらい行いです。

そう思う時に、「本当の、愚かな、弱い私」が「ありたい私」を考える術、それが、「宗教」の本来の意味や価値なのではないかと私は思っています。

故に、浄土真宗では「信者」という呼び名は無く、仏の教えに(親鸞の解釈を通して)学ぶ者ですから「門徒」(門をくぐって学ぶ者)と呼びます。

Twitterや、電子的な手段というものに匿名性は全くありません。物理的な造作としての顔が見えないということと身元がわからないということは全く別です。いっそ、電子的な手法を使っていれば確実に、あなた、が、あなた、であることを隠し通すことは不可能です。
なにせ、たぐれば必ずあなたの名前や居場所につながるデータで構成されている手法をつかっているのです。

ですが、それなのに、そこでは「ありたい私」と「弱い私」「こう見せたい私」「苦しむ私」を、多くのひとたちが使い分けている・・・つもりで、全くひとつの、逃れられない「私」が、自分の人生のなにより大切な「時間」と「心の力」というものを誰かが換金する素として投げ出し、一度しかない人生を誰かの小銭に換えるために消費し続けます。

それは、そうしないといられないから、そうしていないとたまらないから、そんなひとつの苦しみの姿であると私は解釈しています。
その時間や心の力を、たとえば楽器の練習に、読書に、語学の習得に、そんな立派なことじゃなくても、ただただ単純に、私が本当にしたいこと、のために使いたい宝物が、誰かのおもちゃになっていることはうっすらわかるのだとおもいます。だからなおさら苦しいのではないかと思います。

「私は、こんなことがしたかったんだっけ?」
「私は、こんなことのために毎日生きてるんだっけ?」
「私は、こんなことするために生まれてきたのかな?」
それを思いたくないから、自分をひたすら忙しくさせる。
立ち止まると気づくので、今日も賑やかに空騒ぎをする。
その惨めさを心の奥底で感じないひとはいないのではないかと思います。

是非や好悪、善悪、そんなことではなく、では、どうしたらいいのでしょうか。私はそれを知りたいです。考えてゆきたいですし、共に考えて、できれば行ってゆけるといいなと思います。

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