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あなたは「善人」ですか?それとも?

ふと思い、書き始めてみようと思います。
私はShaku Daidoといいます。日本の仏教のひとつである浄土真宗大谷派の門徒で、同時に英国の神学生でもあります。私の日本語は時々変かもしれませんが、頑張って書いてみようと思います。

明らかに人類の歴史に残るであろう2年間を皆が過ごしています。私自身でいえば、こんな時期が自分の人生のどこかに発生するだなんて想像もしていませんでした。大きな悲劇も、世界的な事件も、戦争も貧困も、自分からは遠いところにあるままで一生を終えると勝手に思っていました。なので今もときどき、全部が嘘なのではないかと思います。でも、全て本当のことのようです。

私は縁あって、子供の頃から「宗教」というものをずいぶん身近にして育ってきました。またありがたいことに、なにか単一の宗教にのみということではなく(あくまで「振り返ってみたら」でしかないのですが)、仏教とキリスト教の学校を初等教育から始まっていったりきたりしながら、とうとう自分の意志で浄土真宗における仏弟子となり、神学生にまでなってしまいました。職業としてはそれなりに先端技術を用いることをしてきたのに、不思議な気もします。

ですが同時に、「不思議ではない」気もします。それは、仏教にせよ、キリスト教にせよ、それらは千年を超える時間を乗り越えて現在もそれを大切にしているひとたちがたくさんいるからには、うつろうことのない普遍的な、そしておそらくは、ひと、というものにとってとても大事ななにかが埋まっているのだろう、とも思うからです。そして残念ながら、今の私にはまだその「なにか」が何なのか、全くわかりません。

最近知人が多くこのnoteというところに自分の思っていることを書くようになったので、私もやってみようとおもいました。Twitterというのも使っていますがいまひとつ使い方がよくわからないくて、こうした一連の文章でかけるところも使ってみようとおもいました。私自身が考えていくため、できれば共に考えていただけるとうれしいなと思い、書いていこうとおもいます。

それにしても、「宗教」とはなんなのでしょうね。定義のしかたは、それこそ宗教と自らを名乗る存在の数だけ、あるいは、自らは言わずとも周囲から「あれは宗教だ」と(多くの場合は揶揄的なニュアンスで、の気もしますが)言われる存在の数だけ存在する気がします。

もしかしたら、コロナ以前のころはよかったなあ、という人がいるとして、だって直接会えたし、とか、飲みに行けたし、などと言うとしたら、じゃあ「それほんとに行きたかったの?」「いまも直接会いたいの?」と誰かに問われたて、うむむ…、となってしまうとしたら?

もしかすると、それは「コロナの前はよかった」教、かもしれませんね。本当の気持ちはもしかすると「もうお金もったいないし飲みになんていきたくなかった」「直接会わなくても別に問題ないし、話したいやつとは話してるし」と思いつつ、「こう言わなければいけない」と、なにか誰かに言わされている、のような。
その意味では、「逃れ難く実在する、本当の私」と「そう言いたい、そうありたい私」の二つがあるならそこには、漠然とでも、明確にでも、「苦しさ」があるのではないかと思います。

いわば、「私はそんな善じゃないのに」と逃れ難く思ってしまう瞬間があるのに、「私は善である」と言いたい、言ってしまう。こんなねじれは誰もが経験しているはずです。会社で上司をしていたり、子供に向けての親であったり、交番の前を通るときとかもそうかもしれませんね。

あなたは善人ですか?それとも悪人ですか?
善人とはなんでしょうか。悪人とはなんでしょうか?
あなたの苦しみのもとがあるとしたら。
いつも漠然とある「なんでこんなことをしてるんだろう」という自らが自らでないような気持ちがあるとしたら。
ひとりになったとき、誰もみてないことを確かめるあなたがいるとしたら。
カメラやマイクがいつもオンになっていたらどうしようと怯えるとしたら。

そんなことに、私なりにおもうことを書いてゆきたくおもいます。
よろしくおねがいします。





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