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知らぬが「本音」

又吉直樹さんの講演会に行ってきました。

又吉さんが「人間」という本を刊行すると聞いたのが2ヶ月前ぐらいでしょうか。奇しくも「人間」という会社で働く私にとって好きな作家さんが同タイトルの本を出版するという事実は、『偶然』の2文字で片付けられるほど陳腐なものではありませんでした。

同じく大好きな西加奈子さんとのトークイベントは新宿だったので行けませんでしたが、又吉さん1人の講演会には当選し、どうにか行くことが出来ました。

講演会では主に「又吉直樹はどのように読書をしているか」という事が語られ、彼の(客観的に見て)行き過ぎた読書愛は観客である我々を何度も笑わせてくれました。

最後に質疑応答の時間があり、私も1つ質問させていただいたのですが、大した質問じゃございませんのでここでは省かせていただくことにして、興味深い一幕をご紹介させてもらいます。

ある若い男性が「小説家が言う『登場人物が勝手に動き出す』って嘘ですよね?」という、若さ故なのか、彼の育まれた環境がそうさせたのか、何とも不躾な内角ギリギリの豪速球が放り込まれました。
その時に又吉さんは一切の動揺を見せる事なく、いつも通りボソボソとした声でこう語ります。

「僕の場合でも、どうしようかって考えて書くというより、こうなんだろうなって先に思いながら書いてますね。そういう意味では自分の予想してなかった方向に動くことは沢山あります」(というようなこと)

なるほど。たしかに登場人物の感情を掴みながら編み上げていく小説において、論理的に構築しながら矛盾なき物語を仕立て上げるより、感情の赴くままに描いた方が作品としての完成度は高いのかもしれません。

かつてブルースリーが「考えるな、感じろ」と言ったように、頭で先に考えて導き出す答えより、心が思うままに下した決定の方が適している場合も大いに考えられるのでしょう。
人の心に訴えようとした時に、自分の心に嘘ついた作品が適しているわけはありませんからね。

ただ、頭でっかちな私にとって「考えるな」とは、甚だムゴいことであり、受け入れがたい事実でもあります。どうしたって知識で解決しようとしたり、論理的矛盾を排除した上で人に発表しようとしますから。それは「否定されない」ための自己防衛でもあるのです。

そんなモヤモヤを抱えたまま、夜は彼女と久しぶりのデートをしました。ぼーっと中之島沿いを歩いていると、どんな会話の流れだったかAVの話に。

実は彼女、処女なんです。

スタイリッシュでエモーショナルなブログがひしめくnoteで、己の性癖や性体験をシンプルな「下ネタ」として披露してしまうぐらいには、軽く変態である自分の彼女が「処女」であることは少し意外かもしれません。

だから、最新の注意を払って階段を上るようにはしています。安心してください、シてませんよ。

しかし、彼女なりにそういったことが恋人間において必要だとは理解してくれているらしく、少し勉強がてらAVを観てみたそうです。

「あなたがよく『いいね』してる人見ましたよ」
「ああ、深田えいみね」
「そう、その人」
「どういうの観たん?」
女教師のやつ」
「え…!?」

私は直後、大爆笑することになります。
それもそのはず、初AVで女教師モノを観た彼女は、紛れもなく女教師なのです。

「ほんまや…そんなつもり無かった…」
「潜在意識がすこぶる働いてますやん!…ハッ!」
「え?」

私はこの時に悟りました。
これこそが「考えるな、感じろ」だと。

彼女は完全に「考えて」ではなく、「感じて」女教師モノにたどり着いているのです。シンプルな性欲に基づいてなのかどうかは言及しませんが、そういうことなのです。
これこそ心の赴くまま、人の感情を揺さぶる源泉となるパワーではないでしょうか。

そしてここから学べることは「知らない方が感覚的になる」ということです。
ネット社会ですぐ知識が手に入る世の中だからこそ、論理ではなく感情にフォーカスされ始めている現代だからこそ、何の下調べもせず感覚でAVを選ぶようなスタイルが求められるかもしれません。

とりあえず、私も今夜は女教師モノを観ようと思います。心の赴くままに。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。