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「興味ないからやりません」という選択。

どうやら私は嘘がつけない性分らしく、そのせいで反感を買うことが昔から多いような気がします。

例えば前職はスマホゲームを作る会社にいたのですが、私はゲームが嫌いでした。入社日の懇親会で何人もの先輩方に「どんなゲームが好きなの?」と聞かれ、毎回「ゲーム興味ないんですよね」と即答するので、最終的に「なんで入ったの?」と聞かれてしまいました。もう一度言いますが、入社日です。

そして今年の7月に広告・ブランディングの業界に飛び込んだわけですが、これまた残念なことに広告にも興味がない。ましてやアートなんてちんぷんかんぷん。先日も社長に「広告勉強せなあかんで」と言われましたが、即座に「いや、興味ないんです」と言ってしまいました。自分の反射神経を恨みました。

その時社長に「人がやってると嫌なん?」言われました。
たしかにそういう側面もあるかもしれません。

カラオケでサカナクションやらワンオクが入れられていく中で、1人松山千春や中島みゆきを打ち込む時は爽快感を感じられますし、あえてムードをぶち壊しにいくこともしばしば。だからみんながやっていること、聞いていること、正しいと信じるものを否定したくなるのも事実です。

ただし、「興味がないことをやらない」というのは別な理由が存在します。
それは「トガりたいから」です。

「トガる」とは、何らかの部分が秀でた結果として個性が際立つことです。
その比較対象は幅広い意味での「常識」や「一般」「大衆」というものになるので、結果的にアウトローなことになりやすいのも事実。

ただ「アウトロー」に見せたいから上司の言いつけに反論している訳ではありません。「やらない」ということが個性に結びつくと思うから、そう選択しているのです。

先日も会社がやっている「人間酒場」というイベントに超高性能VRを持ってきた大学院の方々がいらっしゃいました。何やらすごい技術のデモプレイをしてくれるらしく、興味津々な会社のメンバーは全員参加していました。
私を除いて。

散々「斜に構えすぎ」「インプットを怠るのはよくない」と叱られましたが、私は断固として自分の決断を肯定します。

興味がないことを無理にする行為は、興味の同質化につながります。人は興味の対象が異なるからこそ、違った知識・経験をして、異なる能力を備えた存在になれるはず。だとしたら「興味がない」ということも自分を形成する重要な要素に他なりません。

例えば麻生前総理。彼は漢字が苦手で何度も答弁で読み間違えるシーンを報道され、結果的に支持率が下がって退任してしまいました。しかし、その分麻生さんはファッションやクレー射撃など、別な個性を持っています。
最近では麻生さんのファッションセンスを絶賛する声もあり、もしかすると外交の面でとても役立っているかもしれません。「ミスター麻生はクールね!」と。

もし麻生さんが無理矢理にでも漢字の勉強をしていたら?
お洒落さも失い、クレー射撃のオリンピックにも出られず、政治家としても中途半端な存在になっていたかもしれません。

鉛筆で考えれば誰でも分かる。
みなさん、鉛筆を尖らせるためにどうしますか?

そうです、鉛筆の表面を削っていくじゃありませんか。

人は個性を出そう、トガろうとしてインプットに陥ります。
しかし、「付ける」のではなく「削る」ことでも個性がつくという視点を忘れてはいけません。

「興味ないのでやりません」は「自分の興味を大切にします」ということなのですから。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。