【三島に訊け】#6 死んだ奴の悪口を言え。
よくネットのニュースなんかでは「誰それが急死」だの「訃報」だのが、毎日のようにトレンド入りしているらしい。
死ぬ前までは忘れ去られていたような者も、その時ばかりは「偉業」や「逸話」が神々しいとばかりに語られる。
かつて君らが生まれる前に首相を務めていた鳩山一郎という男がいた。
彼は就任時に散々叩かれ、ヨボヨボの病人扱いされていたが、死んだ途端に「かけがえのない偉材」ということになって、例のごとく持て囃された。
私はこんな話を聞いていて、虫唾が走る。
それは故人への賞賛が、自己中心的なものでしかないからだ。
その理由が分かるか?
よし、教えてやろう。なぜ死んだ人間を賞賛してしまうのか。
理由は2つだ。
まず、「死人は無害」という理由がある。
人のやりきれない欠点というものは、生きているからこそ発生する。
– リップスライムのSUが大塚愛をほったらかして不倫するのも
– ハロウィンで調子に乗った若者が軽トラをひっくり返すのも
これらは彼らが息をして、生を全うしているからこそ発生する欠点なのだ。
しかし、彼らが死んでしまえば全ては完結してしまい、腹を立たせてくることもなくなる。
罵倒する理由が無くなってしまうのだ。
そしてもう1つは、「自分の寛大さを示したい」という理由だ。
故人がかつて行なっていた所業や悪行を赦す行為は、何の負担もなく自分の寛大さを誇示することができる。
もし、渋谷で軽トラを倒した男が、炎上してしまったことを悔いて自殺でもしたとする。
そこであの「自称:軽トラの持ち主の娘」が
『彼が悪いわけではない、本当に悪いのは彼にそう仕向けた社会だ。彼も被害者だったんだと。心よりご冥福をお祈りいたします。』
などと言えば、彼女は一層株があがることだろう。
しかも、自分には何のデメリットもないまま。なんて卑劣な行為だろうか。
私は言いたい。「死んだ奴には悪口を言いつづけてやれ」と。
いいか、人が本当に死ぬときは心臓が止まった時ではない、忘れられてしまった時だ。(と何かに書いてあった)
そして「赦す」という行為は、忘れるためにすることで、いつまで覚えていてもしょうが無いから赦してなかったことにするのだ。
つまり、「赦す」=「殺す」というわけだ。これを肝に命じてほしい。
逆に盛んに悪口を言って、死んだ後も散々罵倒しつづけているということは、まだそいつの中に故人が生きているということになる。
そして、そっちの方がよっぽど人間らしい。
私は死んだ後幽霊になって、自分の悪口を言ってる奴の頭を撫でてやるつもりだ。
(三島由紀夫は1970年11月25日に割腹自殺で亡くなりました)
サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。