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アンティークブックの世界 | アーサー・ラッカムが手掛けた 『ニーベルングの指環』 仏語特装版

リヒャルト・ワーグナーによる『ニーベルングの指環』は、全てのファンタジーの原点とも言える壮大な冒険物語である。この全4章から成る物語にアーサー・ラッカムの挿絵が添えられ、上下巻に分けて出版された。上巻は1910年、下巻は1911年に出版され、同時にフランス語への翻訳版も出された。

アーサー・ラッカムは、英国の挿絵黄金期を代表する挿絵画家の一人である。ウォルター・クレインらから始まったこの黄金期は、1914年の第一次世界大戦まで続く。裁判所に務める父の下、三男としてロンドンで生まれたラッカム。ラッカムの家系は、先祖を辿ると海賊だったと言われている。ラッカムは18歳で火災保険の会社に就職し、事務員を務めた。彼は病弱なこともあって、幼い頃から室内で絵を描くことを好む人物だった。勤務しながら夜間の学塾に通い、雑誌に挿絵の投稿を行うことが彼の楽しみだった。その後、26歳の時に火災保険会社を辞め、新聞会社ウェストミンスター・バジェットに就職、専属挿絵画家のポストを手にした。ラッカムは『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』の挿絵を手掛けたトーマス・ディエルのファンで、その影響を強く受けた。トーマス・ディエルは英国の若手画壇ラファエロ前派の影響を強く受けていたことから、ラッカムの作風にもラファエロ前派に近しいものが感じられる。そのご、ラッカムはジェームズ・マシュー・バリーの著作『ケンジントン公園のピーターパン』の最初の挿絵画家に抜擢され、1906年に出版した同著が高く評価されて一躍有名となった。

それでは、アーサー・ラッカムによる『ニーベルングの指環』仏語特装版を観ていこう。画像はクリックすると、拡大して閲覧できるようになっている。限りなく現品の繊細さと色味を再現するため、キャリブレーションと画像処理ソフトを用いたレタッチを行なった。

仏語特装版 表紙

『ニーベルングの指環』の上下巻の仏語初版は稀少書だが、こちらはその上、豪華特装版で発行部数は上巻300部、下巻350部の限定発行となっている。その稀少性からラッカム作品の中でも、最も収集に困難を極めるものとされている。

これらは当時の貴族や上級階級の富裕層が購入したもので、彼らの所有欲に答えるかの如く豪華な装丁になっている。また、下巻にはアーサー・ラッカム本人の直筆サインが入れられている。生前のラッカムが間違いなく直接触れていたことと考えると、ファンにとっては堪らなく嬉しい。

探し回っても手に入るものでなく、出物が市場に出ることをただ待つしかないことから、入手はほとんど運の巡り合わせと言える。生きているうちに出会えたことが幸運だった。

上巻仏語特装版 1910年初版 表紙

1910年に出版された上巻。『ラインの黄金』『ワルキューレ』が収録されている。ワルキューレのブリュンヒルデが愛馬グラーネで駆け抜ける様子が描かれている。ワルキューレとは、英雄の魂をヴァルハラに運ぶ女戦士で、神のような特殊な力を有していた。ブリュンヒルデには、英雄ジークフリートの魂をヴァルハラに運ぶ命令が下され、彼女はジークフリートを探す旅に出る。

下巻仏語特装版 1911年初版 表紙

1911年に出版された下巻。『ジークフリート』『神々の黄昏』が収録されている。竜退治の英雄ジークフリートの少年の頃の姿が描かれている。ジークフリートは、互いに半神半人の両親の下に生まれ、幼い頃から怪力を持っていた。だが、生まれて間もなく両親が他界したため、鍛冶職人のゴブリンと暮らしていた。

特装版の背表紙

仏語版は極めて稀少だが、それに加えて出版された時期が異なるため、上下巻が揃った状態であることは極めて稀である。ヴェラムに金箔押しの豪華な表紙と背表紙。普及版のクロスよりも、やはり質感に高級感がある。

普及版と特装版のサイズ比較

普及版と比べると、大きさの差は歴然である。特装版のサイズは29.2*23.0センチで、上巻158ページ、下巻185ページ、合わせて計64点のオフセットカラー挿絵が所収されている。普及版の表紙はブラウンクロスだが、特装版はホワイトヴェラムに加え、天金装が施されている。

ヴェラムとは、子牛などの動物の柔らかい皮をなめして造った皮紙で、一般的に高価なものである。ラッカムは、新作を出す際に必ず特装版も出した。ラッカムの場合、国内500部、国外1,000部という割り当てで初版を出していた。

サイン部分
サイン部分拡大

下巻の巻頭には、ラッカムの直筆サイン、彼によって記されたNo.95というシリアルナンバーが入れられている。ラッカム本人が触れていたことを考えると、ファンとしては胸が躍る。

装丁とサイズは普及版と異なるが、中身の挿絵の仕様は特装版も普及版も同様である。以下、挿絵の一部を紹介。

ジークムントとジークリンデの出会い

英雄ジークフリートの父ジークムントと母ジークリンデの出会い。疲弊していたジークムントを手助けし、家に招くジークリンデ。だが、ジークリンデには既に夫がおり、彼は妻が知らぬ男を連れてきたことに激昂。ジークムントを一日だけ泊めることを許すも、激しい嫉妬心を露わにした。ジークムントに惹かれていくジークリンデ。だが、実は二人は、神ヴォータンと人間女性の間に生まれ、生き別れになっていた双子の兄妹だった。後にこの近親相姦が物語の呪いのひとつとなる。そんな悲哀の物語のワンシーンである。

指環に口づけするブリュンヒルデ

ジークフリートの帰りを待ち、彼から貰った指環に口づけするブリュンヒルデ。ブリュンヒルデは英雄の魂をヴァルハラに運ぶワルキューレとして、当初はジークフリードの命を奪う命令を受けて地上に舞い降りた。だが、ジークフリートと恋に落ち、ワルキューレとしての能力を失ってしまう。ブリュンヒルデはジークフリートの旅の帰還を待ちわびるも、彼は旅先で他の人間の女性と恋に落ちてしまう。憤慨したブリュンヒルデは、夫ジークフリートの抹殺を心に決める。だが、これはある者が仕掛けた策略だった。


以上、至極簡単にだが、アーサー・ラッカムによって手掛けられた『ニーベルングの指環』仏語初版を紹介した。日本ではまず観られないもので、仏語版はその存在すら知らない人の方が多いかもしれない。特装版はアンティークブックの中でもとりわけ特別な存在で、ここ何年かで取引相場が急騰している。円安の影響もあって海外からの買い付けは益々難しくなってきている。日本への紹介がより困難になってきているが、めげずに収集と紹介を続けたいというのが筆者の思いである。英国挿絵画家たちの認知は、国内でまだまだ低い状況下にある。日本語による解説書の少なさ、博物館・美術館等でも観られないことなどが大きな要因であるように思う。だからこれを気に、アーサー・ラッカムの挿絵世界に少しでも興味・関心を寄せてもらえれば幸いである。

挿絵の掲載に至っては、筆者私物の初版を自身で撮影し利用した。アーサー・ラッカムについては著作権が切れているため、自身が撮影したものであれば、画像の使用が許されている。



Shelk🦋

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