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逆ソクラテス(伊坂幸太郎)

逆ソクラテス(伊坂幸太郎)

ずっと楽しみにしていたこの本を読んだ後は、数日間他の本に手が出せなかったぐらい心が持っていかれました。

単行本を購入するとまずカバーを外してハードカバーの表紙を見るのが好きなんだけど、これはなんといっても装丁が素敵で。
読む前の段階で、すごい満たされた気持ちに。
紺色のハードカバーに山吹色のスピンの組み合わせにもうっとり。
装丁ってすごいなぁと、いつもほんとに思う。
(関係ないけれど、山吹色ってすごい名前)

この本を表すとしたら、
「大人びた子どもと完璧じゃない大人」の話。

(大人びた子どもって言葉も変だとは思うけれど、一般的に言えばこういう言い方になるのかなと。)
子どもだってしっかりしてる人もいれば、大人だってしっかりしてない人もいる。

「大人」であるかどうかは年齢ではないと常々思う。
月日が流れていけば年齢は増えていくけど、ただ流れていくだけでは「重ねて」いるわけじゃない。
10代だってきちんとした考えを持っている人もいるし、尊敬できる人もいる。
もちろん重ねた月日が短い分"成熟"にはまだ遠いかもしれないけれど、それだけ今後重ねる機会がたくさんあるということ。
そもそも"成熟した"と思うタイミングは生きてるうちにあるの?とも思う。

完全である必要はなくて、紆余曲折を経てそれぞれの重ね方をしていけば良いじゃない、と。

素敵な年齢の"重ね方"をしたいと思うようになってからは、年齢を重ねることが楽しみになっている。
「大人は楽しい」と言ってくれた大人たちの気持ちがいまでは、すごくわかる気がする。

同時に、子どもの生きる世界の方がよほど残酷に思う
絶対的ヒエラルキーがあって
決めつけがある
黒といえば、白も黒になる
世界は狭く、だけどその世界が唯一絶対の世界

そして、そんな世界で子どもたちが接する先生という存在は、親や親戚以外で関わりを持つはじめての"大人"
その大人を、子どもたちは選ぶことができない
その辛さをしみじみと思い出す

その大人が、この物語の磯憲のような人だったらなぁとか、
『チルドレン』の陣内だったらなぁとか、思わずにはいられない。

「そもそも、大人が恰好良ければ、子供はぐれねぇんだよ」
陣内の言葉が浮かんでくる。

磯憲は陣内とは違ってわかりやすい恰好良さではないけれど、
子どもの頃に磯憲のような存在に出会えるかどうかでかなり違ってくると思う。

子どもたちと接する大人は、かっこいい大人であってほしいと切に思う。
そして、私自身もかっこいい大人でありたいと思う。

逆ソクラテスを読んだら、チルドレンの陣内にまた会いたくなりました。

「俺たちは、誰かの影響を受けずにはいられない。
自分がどう思うかよりも、みんながどう思うかを気にしちゃう。君は、ドクロマークがダサイと言われたら、そう感じずにはいられないし、もう着てはこられない」

「今まであちこちの学校に通ったけどさ、どこにでもいるんだよ。『それってダサい』とか、『これは恰好悪い』とか、決めつけて偉そうにする奴が」
「で、そういう奴らに負けない方法があるんだよ」
「『僕はそうは思わない』」
「落ち着いて、ゆっくりと、しっかり相手の頭に刻み込むように」

君の思うことは、他の人に決めることはできないんだから

「逆もあるよ。『この生徒は駄目な子だ』って思い込んで接していたら、その生徒が良いことをしても、『たまたまだな』って思うだろうし、悪いことをしたら、『やっぱりな』って感じるかもしれない。予言が当たる理屈も、これに近いんだって。
それくらい先生の接し方には、影響力があるってことかも」

「敵は、先入観だよ」

「完璧な人間はいるはずないのに、自分は完璧だ、間違う訳がない、何でも知ってるぞ、と思ったら、それこそ最悪だよ。昔のソクラテスさんも言ってる」
「『自分は何も知らない、ってことを知ってるだけ、自分はマシだ』って、そう言ってたらしいんだ」

「______もし口に出さなくても、心では、そう念じたほうがいい」
「心で思うだけでも?」
「それが大事だよ。絶対に受け入れたら駄目だ」

「人間の先入観っていうのは侮れないんだよ。人は、自分の判断を正しい、と信じたいみたいだし」

「申し訳ないが、あれは由緒正しい」
磯憲は真顔でいう。
「正真正銘のでたらめだ」

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