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社会正義とメディア効果論

あけましておめでとうございます。
新年早々巨大地震や事故・事件が起こっていますが、
皆さまの今年一年が素敵なものになりますように。

前回の記事では、近年のフェミニズムやLGBT関連のイベントは、誰が、どのようなアジェンダ(議題)を、なぜセッティングしているのか、という点に目を向けました。

とりわけマス・メディア、マス・コミュニケーションの領域において、あるアジェンダが「誰によってどのような意図を持ち設定されたものなのか」を批判的に検証する視座及び研究は、「議題設定機能(アジェンダセッティング)」と呼ばれており、報道での言及量や頻度によりあるテーマの重要性が決定づけられるという影響力をマスメディアが持っていると考えられています。
また、ニュースなどが作られる時にどのような偏りを持って制作されるのか、メディアが特定の問題を報道する際に用いる解釈の枠組みが、受け手の解釈の枠組みを規定すると仮定する主張は「フレーミング」と呼ばれています。

今回は、フェミニズムを含め「社会正義」といわれるような活動が、近年メディアをどのようなものと捉えているのか、メディア論の観点からはどのようなことがいえるのかについて書いていきたいと思います。


「メディア効果論」の変化

メディア効果論とは、メディアが人々の行動や意識に及ぼす影響に関する理論ないし研究であり、マスメディアの「効果」を一貫して問題にしてきました。また、メディアが持つ権力性を批判的に検討するものであり、大まかには弾丸理論、限定効果理論、強力効理論と時代ごとに傾向が変わっていきました。

弾丸理論

弾丸理論は「メディアは受け手に直接、強力な効果を及ぼす」と考える戦時プロパガンダの影響を色濃く受けた1940年代あたりまでのマスコミ研究です。
メディアに接触した受け手は、弾丸で打たれる、あるいは皮下注射を打たれるかのように影響を受けるという、プロパガンダの影響にお墨付きを与えるご都合主義的なモデルで、受け手はメディアに操作されるだけの受動的な存在とされました。

限定効果理論

1940年代以降、60年代までの戦後期に台頭した限定効果論は、「メディアによって大衆を啓蒙(プロパガンダ)することは可能である」とする弾丸効果論とは異なり、受け手は能動的にメディアへの接触をそれぞれ選んでおり、メディア接触以前の偏向性がメディア接触の効果として決定的な役割を果たすというものでした。
タバコを吸う人はそうでない人に比べて積極的に喫煙所の情報を探すし、推しアイドルが活躍するニュースを見ると推しへの尊みが増幅するが、そのアイドルのファンでない人にとってそのニュースは傾注に値する情報ではないというわけです。

強力効果論

1970年代に登場した強力効果論は、限定効果論で強調された受け手の能動性を否定し、再度受け手はメディアに操作さやすく脆弱で受動的な存在とされました。「議題設定機能(アジェンダ・セッティング)」「沈黙の螺旋モデル」「培養分析」「知識ギャップモデル」「メディア依存モデル」など、マスメディアの影響力は個人の能動性を凌駕する大きなものであるとしました。

メディア効果論は、マスメディアの「効果」を一貫して問題とする傾向があるため、受け手を受動的に扱う一方で、メディアを因果性や蓋然性を持つコミュニケーションとして位置づけがちであるという特徴があります。
1980年代以降はカルチュラル・スタディーズや精神分析の流れを組んだ「能動的オーディエンス論」や、メディアの「効果」から「媒介性」に注目をする研究も増えていきますが、近年においても、メディアにおいてある表現が「問題である」と批判される場合には、メディア効果論、とりわけ強力効果論が活用されています

「メディア効果論」はメディア論の中の一部であり、実際のメディアの影響を測るには個別具体の詳細な調査が必要となります。
「メディア効果論」を論拠として表現に制約を求めるなら、本来は、詳細な調査が必要となるはずですが、各種炎上事例を見ているとその形跡はありません。
メディア効果論の「効果」は個別具体で異なると考えられますが、メディアを批判的に検討することそのものは、メディア論のスタンダードな姿勢です。

フェミニズムメディア研究の古典『ニュース社会学』

メディアの「アジェンダ・セッティング」や「フレーミング」に関する研究の古典に、ゲイ・タックマンの『ニュース社会学』があります。
フェミニズムに関するニュースがマスコミによって取るに足らないものや周縁的な情報として扱われたることに憤ったタックマンが、実際にニュースの制作現場に入り込み、報道側がニュースを作る過程において、どのような技法が採用され、どのような権力や検閲的な機能、人間関係や制限などが介在するのかを研究したものです。

メディアで「事実」として報道されるニュースは、時間やコストに制約のある作り手によって切り取られ(「フレーミング」)、優先順位をつけられ(「アジェンダ・セッティング」)組織の人々の価値観を反映しつつ編集されたものであり、それは実際の出来事を歪曲化しうると批判されています。

例えば、Colabo問題では、住民訴訟など係争中の案件であるにも関わらず、片方(Colabo側)の主張しか報道で採用されていないことが多くあります。
テレビにおける報道は、1950年に施行された放送法と電波法によって、新聞や雑誌を典型とするプリント・メディアよりも、政治的公平や論点の多角的解明といった番組内容に関する規律を守ることが求められているはずですが、知識人含め、社会正義に敏感な人々の中には、こうしたメディアの偏向報道に不満を漏らす人々を「冷笑系」や「陰謀論者」であると蔑視する向きもあります。
しかし、「事実」として報道されるものが「客観的な事実であるか」を批判的に検討すること自体は、「冷笑系」でも「陰謀論者」でもない、メディア論的には当たり前の態度なのです。

(ちなみに、放送法と電波法がある種の表現を制限する論拠としては、「有限希少な電波を排他的に使用するものであること」、「社会的影響力が極めて大きなメディアであること」の2点が主に挙げられています。)

「周縁」から「権威」へ。フェミニズムのあゆみ

さて、フェミニストであるタックマンが周縁の位置からメディアの偏向報道を憂いた時代と、現在の日本では状況が異なります。

政府主導の男女共同参画とメディアにおける取り組み

1975年に国連が国際婦人年を提唱、メキシコで「国際婦人年世界会議」が開催され、各国の取るべき措置のガイドラインとして「世界行動計画」採択されました。
1979年に国連総会で採択された「女子差別撤廃条約」は、日本では「男女雇用機会均等法」が制定された1985年に締結されます。
1994年には内閣総理大臣を本部長、内閣官房長官・女性問題担当大臣(男女共同参画担当大臣)を副本部長とし、全閣僚を構成員とする男女共同参画推進本部を設置、1999年には男女共同参画社会基本法(平成11年法律第78号)が公布・施行され、2001年には総理府の男女共同参画室が内閣府に属する男女共同参画局に格上げし、定員も予算も拡充させた男女共同参画局発足します。

第5次男女共同参画基本計画(令和2年版)の第10分野「教育・メディア等を通じた男女双方の意識改革、理解の促進」の項目では、「メディア分野等と連携した積極的な情報発信」として新聞・テレビ・映画・ゲーム・インターネットメディア・広告などの多様なメディア関係者と連携した取り組みが行われています。

第5次男女共同参画基本計画(令和2年版)第10分野「教育・メディア等を通じた男女双方の意識改革、理解の促進」

内閣府では、具体的な取り組みとして、男女共同参画に資する広告やコンテンツ等について積極的に情報発信を行うことや、男女共同参画を阻害する固定観念の撤廃を目指すために国連助成機関(UNウィメン)が進める国際的な共同イニシアティブ「アンステレオタイプアライアンス」や、同イニシアチブに参画する民間団体が行う取り組みと連携しているといいます。

こうした現在の状況は、現在のフェミニズムによるメディア批判が、タックマンが研究した時代のような周縁からの権威の批判ではなく、権威からの周縁批判になりうることを示唆します。
「萌えキャラ」や「セクシーな女性」叩きは、市井の女性の草の根の活動であるだけではなく、内閣府から潤沢な予算が付き行う啓蒙活動の一環ですらあるのです。
男女共同参画のメディアに対する取り組みは、メディアの偏向性を批判するメディア論の視点を持っているのでしょうか。

UNウィメンから批判された『月曜日のたわわ』の日経新聞広告と、フェミニズム議員連盟から批判されたVTuber戸定梨香の松戸警察交通安全キャンペーン

余談ですが、1975年の国際婦人年を期に始まった「性別役割分業」描写の批判(「私作る人、僕食べる人」批判が有名)は近年でも「性別ステレオタイプ」表象批判としてオンラインで炎上を繰り返しています。
2010年代からは、萌えキャラバッシングやセクシーな女性の表現活動なども批判の対象となりました。これらは基本的にはこのメディア弾丸効果論や強力効果論が採用されており、「メディアに継続的に接触することで女性蔑視的な刷り込みが行われることを防ぐ」という名目があります(世界行動計画でも扱われています)。
しかし、「エロ漫画やホラー映画で性犯罪や猟奇犯罪が増える」「メディアによって性差別が再生産される」という科学的な根拠はありません

日本のフェミニズムによる広告・コンテンツ批判の変容

アクティビズムからアカデミズムに編入したフェミニズム

この間に、市民活動であったウーマンリブは女性学やフェミニズムと名前を変え、アカデミズムで正統な地位を得るようになり、「周縁」から「権威」へと昇格します。

こうした「フェミニズム」そのものの地位の変化に、なぜか学者や国際組織の職員、社会活動家たちは無自覚です(知っているけどダンマリなのかもしれませんが)。
第三波フェミニズムは人種、エスニシティ、国家、ジェンダー、階級、セクシュアリティなど、さまざまな差別の軸が組み合わさり、相互に作用するインターセクショナリティ(交差性)を重視しているといいますが、フェミニズムそのものの権威性に関しては言及されないか、「白人の」「新自由主義の」と枕詞をつけて対象を限定する傾向があります。
「足をどかしてくれませんか」と主張する割には自分の足元は顧みないのかもしれません。

「社会正義」拡散装置としてのメディア活用

ジェンダーやフェミニズムだけでなく、いわゆる「社会正義」にまつわる活動が政治闘争の項目の一つになってから、「公平・公正」「不偏不党」など、報道おいて重視されたものは忘れ去られ、メディアを「活用すべき声の拡散装置」と捉える向きが強くなったのかもしれません。
メディア論において批判的に検討された方法は無批判かつ肯定的に、積極的に活用されるようになっています。

どのような表現でもバズるが勝ち、メディアは自論拡散のパートナー

駒崎弘樹『政策起業家 ー「普通のあなた」が社会のルールを変える方法』では、保育園落選者のデモを「デモの人数は40人程度と大きなものではなかったが、母親たちが泣きながら訴える姿はメディアが好む絵面であり、多くの局で取り上げられ、さらに政府を突き上げる格好となった。」と、メディアに取り上げられることが活動の追い風になるなら単純化されたりステレオタイプな表現でも「効果的な絵」として肯定しています。

駒崎氏の本では、「男性育休義務化」に関する取り組みで、キャンペーンパートナーとしてハフポス(メディア)と連携し、広報機能として活用するさまが描かれています。
ここには、拡散装置としてのメディアを自身の影響力拡大のため活用したい野心はありますが、メディアの権力性を批判的に検証するような視点はありません。

政策起業家:
民間人の立場から政策に影響力を与える人々、特に課題の政策アジェンダ化や政策の実装に影響力を与える個人

メディア論もメディアも「わがまま」に使うもの

荻上チキ『社会問題のつくり方  困った世界を直すには?』では、「わがまま」を「社会問題化」することを積極的に推奨し、社会問題解決のためにデモ、スタンディング、署名、ロビイングなどを行う団体をつくること、活動資金の調達方法や、団体活動において適切な役割分担を行う資源動員論がやわらかい言葉で提唱されています。
そして、「ハラスメント」や「気候危機」など、人々があることを「問題である」と考えるようになる「概念」を積極的につくること、 世論を作り、社会を変えるために、メディアの影響力を活用することを推奨します。

荻上氏は、「アジェンダ・セッティング」という項目を、メディア論で論じられたメディアの偏向性を批判する文脈を無視して紹介するだけでなく、社会運動の賛同者を増やすために、「メディアを通じて発信を行うことで、「このテーマは大切そうだぞ」「社会問題だぞ」と思ってもらう。(中略)賛成意見を増やすためにも、まずは議題を設定するところからはじめよう!」と、自分の問題意識がメディアに取り上げられ拡散されることが目指されます。

『社会問題のつくり方  困った世界を直すには?』p75

記者会見でわかりやすい「絵」を用意する。など、メディア論の「フレーミング」で批判された項目も推奨されています。

『社会問題のつくり方  困った世界を直すには?』p78


『社会問題のつくり方  困った世界を直すには?』p77
アジェンダ・セッティングに対する批判的な視点はない

また、この本ではメディアの「沈黙の螺旋モデル」に関して、「少数派が発言を控えてしまうと、多数派の意見ばかり取り上げられ、少数派はますます発言がしづらくなってしまう」という、社会運動(マイノリティ)側の視点からしか紹介されませんが、この理論はエリザベート・. ノエル・ノイマンによって、1965年の西ドイツ総選挙の状況から提唱されたものです。
人々が周囲の状況やマスメディアでの報道を通して意見分布の状態を判断することを「準統計的能力」とし、人々は自分の支持政党(意見)が多数派だと認識すればより雄弁に語り、少数派だと認識すると自分の意見をあまり人前で言わないようになり、その結果、「知覚された多数派の声」が台頭し、選挙戦終盤における支持のなだれ現象が起きたとしました。
ノエル・ノイマンの研究は、「たくさん声を上げてマジョリティの世論を上書きしよう」という趣旨のものではないのです。
(余談ですが、ノエル・ノイマンはナチスドイツのもとで宣伝研究に従事していたという経歴があり、沈黙の螺旋理論はこの時の研究が礎になっているともいわれています。)

アクティビズムとアカデミズムの密月

駒崎氏も荻上氏も、メディア論で批判されているメディアの偏向性や権威性を、持論・自陣を強化するためになら積極的に活用するべきだと提唱しています。
アカデミズムやメディア論において批判されていた恣意性や偏向性を無視していることから思い出すのは、本来、アクティビズムとアカデミズムは相性が悪いということです。

フェミニズムがアカデミズムで地位を獲得してからは有耶無耶にされることが多くなりましたが、本来、恣意性や偏向性を廃し、客観的事実を重視するアカデミズムと、持論・自陣の強化に都合がよければ恣意性や偏向性、権威性すら積極的に活用しようというアクティビズムのスタンスが無批判に交わることはありえないことでした。

少し話が飛びますが、マーシャル・マクルーハンによる『メディア論:人間の拡張』は、メディアは人間の機能を拡張・変形させる媒介物であり、個々のコンテンツより媒体自体の性質に注目するものでした。

  • 公的であるべきマスメディアを自身の身体の延長のようにとらえるアクティビストと、アクティビストの言葉に「感染」するメディア産業従事者や学者。そしてアクティビストになる学者。

  • アクティビストは「個人」の問題を「社会」の問題にするにあたり、客観的な事実よりも、インプレッションが稼げる扇情的な絵面を求め、アクティビスト化する学者はアカデミズムの手続きを無視したり、乱暴な論立てでもイデオロギーに相違がなければ支持する。

こうした相互作用によって、定量的な統計データや実際の当事者に対するパターナリズムは無視されていくのかもしれません。

社会正義はいつも正しい?

ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイ『社会正義はいつも正しい:人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』という本があります。
この本では、 モダニズムと近代啓蒙時代への懐疑をおし進め、一種のシニシズムになったポストモダニズムと、1990年代にポストモダニズムから複雑性を排除し、先行者の特権批判とマイノリティのアイデンティティの特権化というアクティビズムにおける使い勝手を重視する形で派生した「応用ポストモダニズム」。応用ポストモダニズムがポリティカル・コレクトネスというアイデンティティに関する厳格な規則をつくり言葉狩り的に攻撃性を高めていく背景が論じられています。

アカデミズムがアクティビズムと結びつくことで、異なる価値観を排除し、気に入らない発言を探し出して揚げ足を取り恫喝的にキャンセルを迫るような状況が現在進行系で起きているのだとすれば、過去を検証し、歴史から学ぶべきでしょう。

マジョリティは、「差別をしたい人」ではない

当たり前のことですが、マジョリティは、「差別をしたい人」ではないし、「白人」「男性」「シスヘテロ」だからといって糾弾すべき敵にはなりません。

メディアを都合良く使うことに抵抗がなくなった「社会正義」や、権威を持っているにも関わらず「脆弱なマイノリティ」のふりをするフェミニズムが多くの人から煙たがられているのは、保守的な差別主義者や女性蔑視的な社会でバックラッシュが起こっているからではありません。
本来は様々な価値観や生き方、権利の問題が複合的に絡み合っていることを無視して、「社会正義」や「フェミニズム」の旗の下とにかくインプレッションを稼ぎ、受け手に「社会における問題である」と想起させようとする粗雑な認知向上キャンペーンを乱発するから呆れられているのが現状だと思っています。


最後まで読んでくださりどうもありがとうございます。

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3000字くらいでさくっとまとめるつもりが、メディア論の説明や男女共同参画まわりの歴史などを含めていたら倍以上の量になっていました。
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