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勉強ができないと自己肯定感が低くなるでしょうか?

「小学校1年生ですが、勉強ができないと自己肯定感が低くなるのではないかと心配しています。塾に行かせたほうがいいでしょうか?」

というような自己肯定感に関するご質問をたまにいただきます。


今回は私の経験や学んできたことを踏まえ、少し整理し、私なりの考えを述べたいと思います。


自己肯定感とは?


「自己肯定感はとても大切」ということをいろいろなところで聞くようになりました。しかし少し違和感を感じています。


そもそも自己肯定感とはなんでしょうか?


そしてなぜここまで大切だと言われているのでしょうか?


私が自己肯定感という言葉に出会ったのは、15年ほど前、子育ての本を読みあさっていた時です。


その時読んだ自己肯定感の定義は、「ありのままの自分でいいんだ、という感覚」でした。


なるほど確かにこれは大切だ、と強く感じたのを覚えています。それで、メンターからもいろいろと教えていただき、本も読み、妻ともじっくり話をして、我が家の子育ての指針としました。


しかし、最近は「やればできるんだ」という自己効力感なども自己肯定感の一部としている方もいるようです。


「自尊感情」、「自己受容感」、「自己効力感」、「自己信頼感」、「自己有用感」、「自己決定感」などさまざまなもので成り立っているとされる方もいます。一方「自信」「自己有能感」などの言葉もよく使われています。


もしかしたら自己肯定感に課題を感じる大人を対象にした本と、子育てをテーマにした本で違いがあるのかもしれません。


しかし定義が曖昧で、区別せず一緒くたで使われていたりするためわかりづらく、言葉の意味をイメージでとらえてしまうと、誤解と混乱につながる気がします。


誤解により、お子さんにあれもこれもやってあげないといけない、と感じたら、プレッシャーも大きいのではないでしょうか。


そこでここでは、これらの言葉を大きく2つに分けて整理したいと思います。


1. 能力に関する感覚

 「自己効力感」、「自己信頼感」、「自己有用感」

 「自己決定感」、「自己有能感」


これらは「自分にはできる」、「相手の役に立っている」「自分で自分の決定をコントロールできている」というように、基本的には能力や成果に関した自己感覚です。


能力や成果に関する感覚なので、サッカーに関しては「自己有能感」が高くても、ピアノや算数に関しては低い、ということもあります。勉強でも、英語に関しては高く、数学に関しては低い、ということもあるでしょう。スポーツにおいて「自己有能感」が高くても、勉強においては別ということもあります。


テーマによって高い低いが変わるものであり、さらに時期や周りの環境によっても変わるものです。


例えば、地元のサッカーチームでは、自己有能感を高く感じていた子でも、県の選抜チームに行ったら下がってしまった、ということもあります。サッカーに自信があっても、スランプの時期には下がるでしょう。


つまりこれらは相対的な感覚なのです。そして、ありのままでいいとも言えない部分です。それぞれの分野でそれぞれのペースで能力をみがく必要があります。


もちろん程度はあります。人それぞれ、長い人生の中で、自分の専門分野において、ある程度のアップダウンはありながらも「自己有能感」が維持できており、組織やコミュニティーの中で「自己有用感」がもてたらいいのではないでしょうか? 誰もがすべてにおいて高くなければならないものではないはずです。


これら能力に関する感覚について親御さんができることは、機会の提供だと思います。


興味のあることを通してやればできるという経験をさせてあげる。自分で考え判断や決断を行う経験をさせてあげるなどです。


2. 存在自体に関する感覚

 「自尊感情」、「自己受容感」


「自尊感情」は「自分を尊いと感じる感情」、「自己受容感」は「ありのままの自分を受け入れる感覚です。


これら、自分の存在自体に対する自己感覚は、誰でも高く持てたほうがいいものです。


「自尊感情」や「自己受容感」が高ければ、何か問題や困難があっても自分で自分を傷つけたり、自死を選ぶことはないでしょう。失敗しても何度でも立ち直れるでしょう。さらに、自分を信じて能力を磨くことで、「自己有能感」なども得ることができると思います。


逆に自己肯定感が低い状態なのに、勉強を頑張らせて「自己有能感」を得てしまうと、あとでつらいことが起こるかもしれません。緩い地盤の上に、高層ビルを建てるようなものだからです。


勉強や仕事の成績がいい時はいいのですが、成績が落ち込んだ時や仕事がうまくいかない時には、「こんなダメな自分は生きている価値がない」というところまでいってしまうケースもあります。


自己肯定感がこれほどまでに大切な理由は、将来命に関わることがある点、すべての土台となるためなのですね。


以上により、自己肯定感は「自己有能感」などの能力や成果に関する感覚とはわけて、「自尊心」や「自己受容感」のみを表すものとして使用するのがいいと考えています。


自己肯定感は、高みを目指すものではない


自己肯定感を「自分を尊いものとして、ありのままの自分を受け入れる感覚」とすれば、さらに高く、さらに高く、と高みをめざすようなもの、頑張ればいいものではないことがわかります。他のさまざまな能力に関する感覚とは性質が違います。


ありのままの自分というのは、自分の中にある嫌な面を含めて、自分を尊いと感じ、受け入れるということです。そのありのままの自分を100%受け入れられた状態が望む状態としたら、それ以上の高みはありません。


ここに言葉の定義の重要性があります。


そのため、自己肯定感は「70%の自分のみ受け入れられていて、残り30%の自分は(多くは無意識に)嫌悪している状態」と言ったほうがいいはずです。本来は「自己統合感」と言ったほうがしっくりくるかもしれません。


ドラゴンボールのピッコロと神様のようなものをイメージするといいかもしれません。


もともとは自分の名前も忘れてしまった天才ナメック星人が、ピッコロと神様に別れたがゆえに、大幅に力を失ってしまった状態、それがいわゆる自己肯定感が低い状態といえるのではないでしょうか? そして、自己肯定感MAXというのは、スーパーナメック星人として統合された「神コロ様」です。


勉強は自己肯定感を高めてくれるか?


勉強を頑張って成績がとれるようになれば、勉強という分野で「自己有能感」は高まります。やればできるという「自己効力感」も高まるかもしれません。


しかし自己肯定感を高めてくれるものではありません。自己肯定感を高めるために、勉強を頑張らせるのは目的に合わないわけです。


たとえ勉強やスポーツがノッている時期に、はたから見て自信満々に見えたとしても、自己肯定感が高いわけではないこともあります。コンプレックスをバネに無理をしているかもしれないためです。私も若い時そういう状態だったのでよくわかります。


たとえ勉強どころか何もできなくても、たとえ周りにどう思われたとしても、たとえ世界中が敵になったとしても、自分は生きている価値のある存在であるという感覚、それが自己肯定感の高い状態と思うのです。


自己肯定感が高ければ勉強はなんとかなる


「自己有能感」が高くても、自己肯定感が低すぎるとあとで問題が起こるわけですが、逆に自己肯定感が高ければ、勉強などはその気になればなんとでもなるものです。


子供というのはもともと勉強好きです。「なんでなんで?」「もっと知りたい、やってみたい」というのが自然な状態です。


自己肯定感が高い状態で勉強の楽しさに目覚めると、楽しみながら、すごくいい形で成績も伸ばすことができると考えています。


まとめ


自己肯定感は「嫌な面も含めありのままの自分を受け入れている感覚」です。


アプローチのしかたが違うので、頑張って手に入れる自己効力感や自己有能感などの能力に関する感覚とは分けて考えた方がいいと考えています。


前回の記事で書いた、「カタい能力」に関連しているのが自己効力感や自己有能感などであり、この記事で自己肯定感と定義している自尊心や自己受容感などが「やわらかい能力」に関連していると考えます。


逆に小さい頃から勉強を頑張らせて、それによって「自己有能感」は得られたとしても、自己肯定感を高めることにはつながらないことは注意が必要でしょう。目的と手段がマッチしていないのです。


逆にいえば、自己肯定感の面で問題なく、本人がやる気ならおおいに勉強をすべきでしょう。学ぶことは本来楽しいからです。


もちろん、自己肯定感が100%の人はいないはずです。多かれ少なかれ誰しも自分の中に嫌な面があるのが自然な状態と思います。


そのため、親御さんがお子さんの自己肯定感を100%にすることを目指して頑張り過ぎる必要もないと思います。


あくまで「勉強ができないあなたはダメな存在」というような誤解が生じないよう、少なくとも親だけはお子さんの存在自体を受け入れてくれているということが伝わるよう、注意してあげることが大切ではないでしょうか?


また、お子さんが大きくなってしまったので手遅れなのではないいか、と感じる必要もないと思います。


どのタイミングであったとしても、お子さんがかけがえのない存在であること、お子さんがどんな状態であっても尊い存在であること、心配するあまり勉強のこともいろいろ言ってしまっていること、などを伝えられたらすごく素敵なことが起こることでしょう。


最後に、冒頭のご質問についての回答です。


私は、小学4年生くらいまでは勉強は学校だけで十分という考えです。


それよりは、たとえ計算が少しできなくても気にせず、漢字が覚えられなくても気にせず、宿題を忘れたりして先生から叱られて帰ってきても、「あなたは生きているだけで十分価値のある尊い存在なんだよ。」ということが伝わるようにしていくのがいいと思っています。


そんなことをしたら、甘やかすことにならないか、自己陶酔の強い子に育ってしまったり、大変なことを嫌がり、楽なほうに流れるような子になってしまうのでは、と心配される方もいるかもしれません。


確かに、「あなたはかけがえのない存在なのだから何もしなくていいのよ、勉強も出来なくていいのよ、何でもやってあげるから」というような対応をしてしまうと、将来まずいことになるでしょう。


しかし、本当に尊重するというのはむしろ「あなたは1人の人間として尊重される価値のある存在。だから、人のことも考えてあげられる子。自分のことは自分でできるようになることはもちろん、他の人のためにも何かをしてあげられるようになる。たとえ今は計算ができなくても、きっとできるようになるから大丈夫!」ということではないかと思います。


もちろん、いろいろな事情で頑張れない時期があってもいいと思います。そんな時は「息をしていてくれるだけでいい。」のです。


その自己肯定感という土台がしっかりした上で、勉強をすることは自分を成長させるために必要なものでもあり、楽しいものということを伝えられるといいと考えます。


例えば、お子さんが興味を示す分野があるなら、一緒に調べたりして学ぶ楽しさを共有するといいでしょう。こちらの記事で書いたようなことを日常生活の中で伝えていくといいかもしれません。


そして、個人差はありますが、脳が高度に発達してくる小学校の高学年くらいから、少しずつ楽しみながら本格的に学問の世界に入っていくと、子供にとっての負担も少なく、学習効果も高いのではないかと思っています。


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