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選挙に行く人にあって、選挙に行かない人にはない〇〇。

ここ最近の投票率は、50%前後で推移しています。2人に1人は選挙に行っていないという状況です。「選挙に行こう」という呼びかけも見られますし、素晴らしい取り組みだと思いますが、その言葉が響いている人は日本全体で見ればごくわずかという印象です。

「選挙に行こう」と言っても響かないのであれば、そもそも、相手にその言葉を受け取る素質が根本的にないのではないか?その根本を解決することを目指すことができないのだろうか?というのが、この記事のテーマです。

選挙に行かない人には、「公共」という観念が存在していないのではないか?

私が導きだした仮説は、選挙に行かない人には、いやそもそも多くの日本人には本来の意味での「公共(パブリック)」という観念が存在していないのではないか、ということです。

日本において公共から連想させるワードは、「公共施設」「公共事業」といった国・公権力がからむ事柄であると思います。自分がそこに主体的に関わる一部という感覚ではなく、どこか自分には関係のない「お上」というイメージが強いのではないでしょうか?

しかし、民主主義における公共とは、本来ちょっと違うニュアンスのはずです。しかし、それをそのまま説明しても感覚的に理解できないでしょうから、ちょっとまわりくどい説明をして、本来の公共という観念を説明したいと思います。そして、そもそも日本人には公共というものを理解できない国民性があるのではないかという話をしていきます。

顧客中心主義と公共の感覚はちかい?

お客様は神様という言葉もありますが、近年、企業における顧客中心の大切さがしきりに喧伝されています。

その理由のひとつは、ITサービスのサブスクリプションのように、顧客と企業の関係性が長期間にわたって発生するようになってきたことによって、より顧客の気持ちに寄り添わなければ顧客が逃げていってしまうことだと思われます。

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「顧客中心主義」を私なりに定義すれば、顧客のニーズを満たすことが企業の最重要の役割であると考える企業文化のことで、企業の全員がそのことを理想として共有しており、そのためには部署間の利害関係も超えて協調します。

例えば、とあるメガバンクのアプリのトップページに、リボ払いを使ってもらうためのボタンを目立つように大きくのせていました。しかし、顧客の利用シーンを観察してみるとリボ払いには一切関心を示さず、小さい「残高照会」のボタンを必死に探していたのです。そのことが理解されると、リボ払いのボタンの優先順位を下げて、アプリは使いやすく改善されることになりました。

このように、自分や部署の成績を上げるためにお客様が求めていないものを無理やりねじ込むなどせずに、その個人的な感情を一旦切り離して、顧客にとっては何がベストだろうかという観点で思考することです。

「公共」とはこの「顧客中心主義」に近い構造であると言えば、ビジネスパーソンには想像できるのではないでしょうか?

つまり本来の「公共」とは、具体的にわれわれがその一部であって影響を及ぼせる対象であり、かつ個人の私的な利害関係を一旦切り離しながら、みんなにとってベストは何だろうかという視点で共に作りあげる、公けの空間のことです。

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顧客中心主義の実現も難しい日本企業

しかし、多くの日本企業は顧客中心主義を実現するのも難しい現状があります。問題は縦割りの組織にありますが、なぜ縦割りの組織では顧客中心主義を実現できないのでしょうか?

まず、縦割りの組織ですから、顧客の情報をふくめてあらゆる情報が、組織横断的に共有されていません。情報が共有されていないために、それぞれの部署は各々が持っている情報のみで判断し全体の連携がとれません。そして、あたりまえの顧客中心ということをついつい忘れて、部署間の利害調整に多くの時間を割くようになります。

さらに、各社員は部署の中でどう出世するか、あるいは追い出されないようにするかという思惑も働いてきます。その結果、関係者調整を経て、顧客にまったく必要とされていないような製品サービスを生み出すようになるのです。

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さて、縦割り組織に課題があるのかと思いきや、実は日本人の国民性として、そうなってしまいがちな共通の資質があるのではないか、という観点で掘り下げていくのがここからの話です。

丸山眞男のタコツボ文化

このことを説明するために、丸山眞男の概念を借りてきます。丸山眞男は戦後、日本の思想を研究した政治学者、思想史家です。

彼の、西洋社会を表す表現として「ささら文化」、日本社会を表す言葉として「タコツボ文化」というがあります。

ささらとは、植物の繊維を束ねたほうきのような掃除道具です。すべての枝が一つの共通の太い根本でまとまっています。

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タコツボとは、タコの狭いところに入りたがる習性を生かして、タコを採るために海の中に沈めておく瓶のことです。

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西洋文化はささらに近く、個人個人が独立しており、そして一つの共通の価値観を共有しています。ここで共有している価値観とは、キリスト教であり神のことです。神の前には皆平等な個人であり、個人の欲よりも天国に行くための行動を優先させる必要があります。共通の価値観を持っていることによって、他者と深く対話をすることができ、みんなにとってどうあることが理想であるかという、落とし所を探ることができるのです。

それに対して、日本社会は複数のタコツボが並列的に並んでおり、それらは紐によって横につながっているようなものだと言います。ここでのタコツボとは同じ価値観でまとまっている村です。人々はタコツボの中から追い出されないように、ほかの人の目をキョロキョロと気にして予定調和的に振る舞います。

そして、中心が存在せず共通する価値観がないために、他のタコツボと対話をすることができません。結果としてほかのタコツボは理解できないよそ者となり、遠くから様子を伺いながら隙を見て自分の村の取り分を増やそうとします。まさに、縦割り組織のようなものです。

日本がタコツボ文化になってしまうのは、国民が共通の神を持っていないことが原因だと思います。強いていえばそれは天皇であったわけですが、天皇はお飾りにすぎず、個人の責任をあいまいにする都合の良い道具であったわけです。(丸山眞男 無責任の体系)

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このタコツボ的な文化がいまだにいたるところに蔓延していて、他者感覚がないことがそもそもの日本の課題です。

自分と異なる価値観の人と会話をすることができなければ、その人自身の価値観がアップデートされません。人は異文化と接した時にはじめて自分と相手の違う部分に気づき、自己が相対化されることで自分自身への理解も深まりますし、他者の視点に立つ想像力もつちかわれるものです。

自己の理解もままならず他者の視点も持てないなら、議論によって異なる価値観と折り合いをつけながら理想に向かって進んでいくことなど、なおさらにできるはずがないと思うのですが、どうでしょうか?

公共の再構築が、いずれ投票率アップにつながる

今や共通の神を再構築することは難しいとしても、公共という観念をインストールすることは可能性があるのではないでしょうか?

まずは、一人ひとりが今いるタコツボから出る努力をすることです。自分がアウェイになる環境に身をおくことが成長にもつながります。あなたがタコツボを出て他のタコツボに入っていけば、あなただけでなく相手も同時にあなたという異なる価値観と接することになるわけです。そうして他者感覚を少しずつ広げていくことが、いずれ公共という感覚につながります。

教育も大切だと思います。「顧客中心主義」は日本企業には相性が合わないとは言いつつも、徐々に企業も変わっています。もちろんそれは「顧客中心主義」を導入しなければ、生き残っていけないという経済的なインセンティブが働いていますが、それでもその価値観を教育的にインストールすることによってタコツボ文化を克服できている面もあるわけです。

同じように教育によって「公共」という観念をインストールすることができれば、いずれ投票に行くという行動にあらわれてくるのではないかと思います。

教育をすることもそれはまた大きな課題ですが、「選挙に行こう」と呼びかけても、それに応える資質がない人を変えるには、それしかないのではと思ってしまいます…

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