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合理性を追求するなら坊主がいちばん良いはずなのに

私は合理的なことが好きだ。
ムダの無いことや、効率性、便利なもの、機能性があるもの。
そうした類のものが好きだ。
だから、身の回りのアイテムにしたって、利用するサービスもそれらを基準に選んでいるし、生活様式だってそこにすべて準じている。

具体的に言うなら、まず自宅環境は機能性だけを追求しており、装飾性は皆無だ。服も着心地や、機能性、汎用性の高さなどを基準に選んでいる。支払いはキャッシュレスがほとんどだし、事前決済もできる限り使う。会議をするなら、事前にアジェンダを知らせたり、教えてもらうし、できるだけ内容は事前の文書で済ませてしまいたい。本当に会議をするべき事柄だけを会議で話したい。とにかく意味のないと思うこと、無駄なことは排除して生産性を上げたいと思っている。

だけど唯一、合理性を無視しているのが髪型だと思う。
もし合理性を突き詰めるならば、丸刈り、丸坊主にするのがいちばん良いはずだ。
なぜなら、髪型のセットをする時間と手間が無いし、風呂上りにドライヤーで髪を乾かす時間もゼロだ。床屋に行く時間もゼロ。
前髪が視界を遮ることもなければ、強風で髪型が乱れることも、帽子を被ってヘアスタイルが崩れることも無い。

費用の面から見ても、バリカンの初期費用こそかかるかもしれないが、あとはほとんどタダで散髪ができることを考えれば、床屋へ通うより何十倍も安く済む。おまけに衛生的だ。

何をどう考えても坊主がいちばん合理的なのだ。坊主は最強なのだ。
しかし私は坊主にはしていない。

ところで、軍人は坊主だ。
生死のハザマで必死になっている時に、ヘアスタイルなんて、それこそ毛ほどの重要性もなければ興味もないだろう。
それに定期的にはお風呂に入れないだろうから、やっぱり衛生面でも坊主が良い。

つまり軍人が坊主なのは、あらゆる面で最適であるから、つまり最も合理的であることのしるしではないだろうか。

そこで疑問なのは、じゃあなんでみんな坊主にしないのか?ということだ。
そしてみんなが坊主にしないことはつまり、人間は合理性だけに生きている訳ではないということの象徴じゃないかと思うのだ。

坊主にしない理由は突き詰めれば3つくらいだと思う。

①自分がこうありたいという欲求(自分の目)
②自分がこうみられたいという欲求(他者の目)
③デザインしたいという創造意欲

①は、ワイルドな自分でいたいとか、アンニュイな自分でいたいとか、爽やかな自分でいたいとか、そういう自分で自分を見る目だ。

②は、他者からどうみられたいかという気持ちだ。異性からモテたいとか、ビジネス上清潔感を出したいとか、威厳を保ちたいとか、そういうものだ。
もし無人島で生活するならこの②は生じないものと思われる。

③は、人間が持つ純粋な創造意欲だ。子供が放っておいても勝手に絵を描くとか、歌を歌うとかそういうものだ。

このように、人間は合理性だけではなく、「価値」や「意味」や「根源的な欲求」などなどを持ち合わせた生き物だと思う。

「人はパンのみにて生きるにあらず」というか、
合理性を追求して生産されたマクドナルドのハンバーガーを食べてさえいれば、幸せに一生暮らせるという訳でもないのだろうなぁと思う。
(※これは喩えであって、私はマクドナルドは狂おしいほど好きである。)

だからこそ、合理性を追求しつつも、自分の考える価値や意味も含めた総合的な幸せを追求するべきなのだろう。
まあ、それが難しい訳で・・・。

そして難しいからこそ、映画や文学やアートや哲学や・・・そういう「意味の世界」が発達してきたのだろうなと思う。

ところで、「坊主」ですら、日本では「意味の世界」のものとも言える。
「坊主にするということ」は、単に短髪にすることではない。

文脈によっては、それが反省の意味だったり、謝罪の意味だったり、心機一転の意味だったり、はたまた罰ゲームだったりする。

つまり床屋でカッコイイ髪型にすることはもちろん、バリカンで坊主にすることにさえも「意味」が生じてしまうのだ。

人間とは、合理性という枠組みだけでは捉えきれない、なんと複雑な生き物なんだろうか。


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