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いまこそ読みたい「バカの壁」【読書ノート】

こ、これだ、、私の思っていたことは・・・!
と、読んだ瞬間にビビッと来ました。

「バカの壁」が初めて世に出たのは2003年4月10日。
今からおよそ20年前。

だけど、この本は20年後の今こそ読むべき本だと思いました。
(もちろん、今に限らず、普遍的な内容だと思います。)

「バカの壁」とは

まず、バカの壁とはなんでしょうか。
養老孟司先生は、はじめに以下のように述べています。

結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司) p4

ただし、ここで間違えてはいけないのは、バカには話が通じない、というような意味合いではないということです。

そういう、誰かと誰かを比較して「バカ」と見下すような概念では決してありません。

なぜなら、バカの壁は誰にでもあるものだからです。

「バカの壁」はだれにでもあるのだということを思い出してもらえば、ひょっとすると気が楽になって、逆にわかるようになるかもしれません。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司) p4

養老先生は具体例として数学をあげています。
数学ほど、分かる/分からないがはっきりするものもないと。
たしかにそうですね。。

それに、どんな天才であっても、例えばアインシュタインであっても、突き詰めていけば分からないこと、到達し得ないことがあったはずです。
その意味で、バカの壁は誰にでもあるものだと思います。

最近読んだ「カラマーゾフの兄弟」の中でイワンがこんなことを言っていたことを思い出しました。

もしほんとうに神があって、地球を創造したものとすれば、神がユウクリッドの幾何学によって地球を創造し、人間の智慧にただ空間三次元の観念のみを賦与したということは、一般に知れ渡っている通りだ。ところが、幾何学者や哲学者の中には、こんな疑いを抱いているものが、昔もあったし、今でも現にあるのだ。つまり全宇宙(というよりももっと広く見て、全存在というかな)は、単にユウクリッドの幾何学ばかりで作られたものではなかろう、というものだ、最も卓越した学者の中にさえ、こういう疑いを抱く人があるんだよ。中には一歩進んで、ユウクリッドの法則によるとこの地上では決して一致することの出来ない二条の平行線も、ことによったらどこか無限の中で一致するかもしれない、などという大胆な空想を逞しうする者さえある。そこで僕は諦めちゃった。これくらいのことを理解できないとすれば、どうして僕なんかに神のことなど理解できるはずがない。(中略)神はありやなしや?なんてことは決して考えないがいいよ、

「カラマーゾフの兄弟」(岩波文庫 訳:米川正夫)第二巻 p53

とりあえず、イワンが言っているのは、「神がいるかどうかなんて我々の頭では考えられない」ということだと思います。

脳の限界、あるいは我々の認識の限界がそこにはあるよ、と。

大事なのは、バカの壁っていうものがあるよ、とそのことを知っておくことだと思われます。

バカの壁を知らないと、
「分かる」「話せば分かる」「絶対の真実がある」
という認識を強く持ってしまうということです。

だからこそ、まずはバカの壁に気づくことが大事だと思われます。

話せばわかるは大嘘。いろんな「バカの壁」

その他にもバカの壁はあると言います。

自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司) p14

脳に入ってくるものを自分でコントロールすることで、脳と外界の間に作られた「壁」。これも「バカの壁」だと。
SNSでいうなら、フォロー機能がこの壁を作っていると思います。
自分の知りたいことだけをフォローしている。
フォローしていない情報は知りたくない。壁を作っている。
その意味でも今日は「バカの壁」が増えている社会だと思います。

「バカの壁」とは何かについてまとめるとつまり、
・「脳に入ってくるものを遮断している壁」や、
・「自身の脳が認識・理解できる限界値としての壁」など、
脳の周りや脳の中に存在している壁のことを指しているのだと思います。

そしてそのような「バカの壁」があると、
「分かる」「話せば分かる」「絶対の真実がある」
という認識を強く持ってしまうことになります。

「わかっている」という怖さ

また、そもそも現実は本来あやふやで曖昧なものだと養老先生は言います。
芥川龍之介の「藪の中」や黒澤明監督の「羅生門」で扱われたように・・・。

ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。皆が漫然と「自分たちは現実世界について大概のことを知っている」または「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思ってしまっています。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司) p19

いまはなんでもスマホで、それも一瞬で調べられます。

だから、我々はなんでも「分かっている」と錯覚しています。
あるいは、「ググれば分かる、youtubeで観たら分かる、グーグルマップで観ればわかる。」というように、まさに「知ろうと思えば知ることが出来るのだ」と思っている気がします。

この傾向がどんどん高まっている時代だと思います。

身体を忘れた日本人。加速する脳化社会化。

現代人が当たり前と思っていることと、実際のところとの間に生じるギャップに関係する問題として「無意識」「身体」「共同体」の3つについても論じられています。

まずは身体性の問題。
身体を忘れて、脳だけで動く「脳化社会」の問題について。

戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司)p88

これも、SNSや、メタバースのようなMR(Mixed Reality)、などが一層その傾向を加速させている気がします。

SNSでは身体を完全に捨象し、自己は名前とアイコンだけに削ぎ落されています。

メタバースは分かりやすい身体の喪失例かもしれません。
例えば、バーチャルオフィスみたいなサービスがあります。

自分のアバターを作って、バーチャルオフィスをそのアバターで移動し、他者とコミュニケーションする。完全に肉体はなくなっています。

※メタバースを否定するつもりはないです。
バーチャルオフィスは、とっても面白いアイデアだと思います。
単に、そういう社会で起きうる問題、生じる傾向についての思索です。

身体を失くすとどうなるか

身体を失った時の問題点についてですが、下記の例が分かりやすいと思いました。

戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。破壊された状況をわざわざ見にいくミサイルの射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。死体を見なくてもよい。
 原爆にいたってはその典型です。(中略)その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器を間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのは、その方向に進んでいる。ナイフで殺し合いをしている間は、まさに抑止力が直接、働いていた。目の前にいる敵を刺せば、その感触は手に伝わり、血しぶきが己にかかり、敵は目の前で倒れていく。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司)p185

これって、最近問題になっているSNSでの誹謗中傷とかも近しい問題ではないでしょうか。

本来、人を殴れば自分の拳も痛いでしょう。下手をすると、むしろ殴った方の自分の骨が折れる。
ナイフで切りつけようとすれば、興奮の為にまず心拍数が上がり、呼吸は早くなり、乱れる。覚悟を決めていざ切りつければ、返り血を浴び、切りつけた時の肉を切る感覚はずっと手に残る。こびりついた返り血は洗ってもなかなかとれない。相手の苦しむ表情、うめき声、恨めしい目がに焼き付く。
そういう体験を通して、ゾッとする。
暴力の恐ろしさを身をもって知る。
身体があれば、そういう身体感覚を伴うでしょう。
(※たぶんですが。)

ところが、SNSなどバーチャルではそういう身体性が無い。
つまり、身体感覚を伴わない。
だから、比較的に安易に誹謗中傷が起こってしまうのかもしれません。
(匿名性という性質もその原因の大きな一つにあると思いますが・・・。)

実際のところ、リアル世界で誹謗中傷しようと思ったら、結構ハードルが高い気がします。

例えば、街で遭遇した見ず知らずの人に面と向かって文句言ったり、罵倒したり、ディスするのってたぶん、なかなか強い覚悟がいりますよね、、、。

それこそ、殴り合いになるかもしれないし。

けど、バーチャルだとできちゃう。

本来、現実とは身体を通して掴んでいく(掴み切れるものではないのだが、)もの。

ところが、現実と身体性が乖離していっている。

例えば、戦争における暴力的な手段も、ミサイルなどのようにだんだんと身体性を無くした間接的な形態に移行していってるので、身体を通じて———例えば自分の目と耳、手や心臓の鼓動、心拍数、記憶など———その恐ろしさを感じることができなくなっている。

三分の一は無意識

また、身体性の問題以外にも、フロイトが発見した無意識の問題についても挙げられています。

脳化社会である都市から、無意識=自然が除外されたのと同様に、その都市で暮らす人間の頭からも無意識がどんどん除外されていってる。しかし人間、三分の一は寝ている。だから、己の最低限三分の一は無意識なのです。その人生の三分の一を占めているパートについては、きちんと考慮してやらなきゃならない。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司)p119

もっと言うと、

「あんたが一〇〇%、正しいと思ったって、寝ている間の自分の意見はそこに入っていないだろう。三分の一は違うかもしれないだろう。六七%だよ。あんたの言っていることは、一〇〇%正しいと思っているでしょう。しかし人間、間違えているということを考慮に入れれば、自分が一〇〇%正しいと思っていたって五〇%は間違っている」ということです。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司)p194

無意識があることを無視して、「なんでも自分は分かっている、正しいことがなにか分かっている」と思い込む危険性を指摘されていると思います。

自分の考える正しさなんて、とても曖昧なものだと再認識したいと思いました。そして自問自答する、批判的思考を持つ、柔軟に考えてみる。
そういう姿勢を持ちたいと改めて思いました。

一元論と「バカの壁」

養老先生は、一元論的な発想は「バカの壁」を築いてしまうと言います。

「バカの壁」というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内面だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司)p194

一元論者に対して、違う可能性を納得してもらうことがどれだけ大変かということは誰しもなんとなく経験があるかと思います。

Aもいいけど、Bもいいよね、と言える懐の深さを備えたいです。

「バカの壁」という言葉は、コミュニケーション上の大きな障壁という意味でも、本質を捉えた言葉のように思えます。

いまこそ読むべき本

やはり、「バカの壁」は冒頭に書いた通り、今こそ読むべき本のように思われてなりません。
それにしても、養老先生の話は面白い。
他にも面白い箇所がたくさんあったのですが、それらにすべて触れるともはや丸一冊を引用することになってしまうのでやめておきます。

最後に、養老先生の下記コメントで締めくくりたいと思います。

安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真実がある」などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。

「バカの壁」(新潮社 著:養老孟司)p204

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