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「コンビニ人間」(村田沙耶香)【読書感想文】

言葉や文章の世界には興味がありながらも、いままで純文学をちゃんと読んでこなかったという後ろめたさがあった。

一方で・・・いや、だからこそ、「文学とはなんだろう?」という興味も同時に持ち続けてきた。

そこで、最近は頑張って純文学を読んでいる。

何を読めば良いか分からなかったが、まずは純文学賞を受賞している作品を読んでみようと思い、芥川賞受賞作もいくつか読んできた。

その流れで、第155回(2016年上半期)芥川賞受賞作「コンビニ人間」(村田沙耶香)を読んだ。

あらすじ

ネタバレしない程度に粗筋を・・・。
(※粗筋より後は、感想文であり物語の全内容に触れていますので、「コンビニ人間」を未読の方で、もしご自身で読まれたい方はご注意くださいませ。)

主人公の私(古倉)は幼少期から「異常」だった。
例えば、古倉が小学生の頃、男子が取っ組み合いのけんかをしていた。
「誰か止めて!」という悲鳴を聞いた私は、スコップでその男子を殴った。何故そんなことをしたのか先生から問われた私は、「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました。」とこともなげに言い放った。

なぜスコップで殴ってけんかを止めるのがいけないのか、古倉には分からなかったのである。

そんな「異常な」古倉が大学生になり、コンビニでアルバイトをしている時は、「普通」を演じて世界に馴染むことができると気が付く。

大学卒業後も私は就職もせず結婚もせず、36歳になるがいまだにコンビニでアルバイトを続けていた。
それは、世間からすると異常であるらしい。
そんな時、婚活を目的として白羽がアルバイトとして入ってくる。


「普通」とはなにか?を訴えかけてくる

作中では、「普通」の人たちと、「普通じゃない」人たちの対比構造が描かれている。
普通の人たちは、普通じゃない人たちを排除する。

白羽「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。―(後略)}

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋 p115

主人公の私(古倉)は、コンビニエンスストアで、マニュアルをなぞることで「普通」であることを演じている。

なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ、完璧なマニュアルがあって、「店員」 になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋p21

ちょっと、太宰治の「人間失格」の「自分には人間の生活というものがとんと見当がつかないのです。」を彷彿とさせる感じだ。

では、普通とはなんだろう?

みんな、人間らしく振る舞っているだけではないか?AIと同じ。

しかし、普通だと思っている人々も、服装、喋り方、などについて周囲の人間をトレースしているに過ぎないのではないか?

 今の「私」を形成しているのはほとんど私のそばにいる人たちだ。三割は泉さん、三割は菅原さん、二割は店長、残りは半年前に辞めた佐々木さんや一年前までリーダーだった岡崎くんのような、過去のほかの人たちから吸収したもので構成されている。
 特に喋り方に関しては身近な人のものが伝染していて、今は泉さんと菅原さんをミックスさせたものが私の喋り方になっている。
 大抵のひとはそうなのではないかと、私は思っている。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋p26

作中に登場する「普通」の人物たちは、みんな服装や喋り方などが伝染し合いっているのが判る。
他者をトレースし、自分が他者からトレースされることで全体的に均一化されていき、「普通」が形作られる。

また、我々は服装や喋り方だけではなく「人間らしさ」も他者からトレースしている。

以下の場面は、コンビニの同僚の菅原さんが、アルバイトを無断欠勤した新人に対して腹を立てているのを見て、私も同調して腹を立てている「ように」振る舞っているシーンだ。

「えー、またバックレですかあ。今人手不足なのに、信じられないです!」
菅原さんの言葉を繰り返す私に、泉さんが時計と指輪を外しながら笑った。
「はは、古倉さんめっちゃ怒ってる! そうだよねー、ほんとあり得ないよ!」
 同じことで怒ると、店員のみんながうれしそうな顔をすると気が付いたのは、アルバイトを始めてすぐのことだった。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋p29

つまり、我々は「同僚が何か愚痴っている時は、自身もそれに同調して愚痴ると、喜ばれる」みたいな「人間らしい振る舞い」を学習して実行しているのだ。

これは誰しもなんとなく経験があるかもしれない。
「こういう時はこういう振る舞いが適切だ」、と学習してきたから、いま社会生活を送れているのだ。
「叱られている時は、申し訳なさそうな顔をしなければならない」のように…。

最近AIが発達してきて、AIが人間の心を持つかどうかみたいな議論があるが、そもそも我々は「人間っぽさ」みたいなことをイメージして振る舞っているので、その意味ではAIが人間らしく振る舞うことは我々と大きな差はないのかもしれない。

世間には、世間が理解できることだけが存在しうる

古倉の同級生たちは結婚し、子供を産んで育てている、いわゆる「普通」の人々だ。

そんな友人たちは、36歳でコンビニエンスストアでアルバイトをしている古倉が「なぜ結婚しないのか?」「なぜ就職しないのか?」と、不思議がる。

皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。私にはそれが迷惑だったし、傲慢で鬱陶しかった。あんまり邪魔だち思うと、小学校のときのように、相手をスコップで殴って止めてしまいそうになるときがある。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋 p54

世間は、普通から逸脱しているものに対して、逸脱している「理由」を欲しがる。
彼らが納得できるような、「妥当で、合理的で、矛盾していない」理由を。
それがあると、彼らは安心できるのだ。
理解することで、安心したい。
自身に理解できないことは「異常」、「異物」として排除される。
世間には、世間が理解できる範囲だけが思考範囲であり、存在し得るのだと思う。
異物があると、安心できない。
異物を排除すると、安心する。

「安心」とはすなわち、「世間という生態系が維持出来ていること」を意味する。

子供の頃スコップで男子生徒を殴ったときも、「きっと家に問題があるんだ」と根拠のない憶測で家族を責める大人ばかりだった。私が虐待児だとしたら理由が理解できて安心するから、そうに違いない、さっさと認めろ、と言わんばかりだった。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋 p37

世間は、世間が理解できるような理由/原因を欲しがる。

世間が理由(原因)を欲しがることは勿論、その理由(原因)が世間が理解できるものでなければならない。

例えば、就職活動。
なぜあなたがその会社を選ぶのか、なぜあなたがその学部を選んだのか、なぜその部活動に勤しみ、なぜそのアルバイトをしたのか。

自分の人生で起きたすべてのことに、客観的で分かりやすい原因があるという前提のもとに、徹底解剖される。

苦労して入社した後もそれは変わらない。
なぜ売り上げが伸びたのか?なぜ納品が間に合わないのか?なぜ遅刻したのか?なぜプロジェクトは失敗したのか?なぜその提案が良いのか?

そのすべてに客観的で論理的で明確な理由があることが重要だ。

「なんかよくわからないけど、失敗しました!」
「とりあえず、成功しました!」
なんてことは認められない。

物事は因果で成り立っていて、その因果を突き止めることができる。
という頑なな前提がある。

もちろん、推測できることは多いと思う。
しかし、なんでもかんでも原因と結果が突き止められるというのは神話じゃないだろうか?

「まだ理解できないこと」、「そもそも理解できないこと」というのはある気がする。

例えば、フロイトが提唱した概念に無意識がある。
すごーくざっくりと言えば、
『人間には意識できる範囲と意識できない「無意識」という範囲がある。
時にその無意識が病気や不調の原因になっている。』という発想だ。(たぶん)

例えば、ある約束に遅刻したとする。
なぜ遅刻したのか?と言えば、普通は、
「寝坊したからだ」「忘れ物を取りに帰ったから」「約束の時間を間違えたから」みたいなことが考えられる。

しかし、本当の原因は無意識という範囲にあるかもしれない。
無意識に「この約束は重要ではない」という認識を持っていたことが、自分でも気が付かないうちに寝坊へと導いたり、忘れ物の一因となったかもしれない、というアプローチだ。

もちろんフロイトの学説自体も、現代で有効かどうかは分からない。
しかしいずれにせよ、そうした無意識的な領域に原因があるかもしれない訳で…。

・・・かなり話が膨らんだが、何が言いたいかと言うと、「人間が把握したりコントロールできるような領域なんて、氷山の一角に過ぎない」と思うのだ。なんでも因果が理解できるという発想自体が実はナンセンスだし、だからこそ「理解できないものは排除する」というスタンスは危険な思想のようにも思われる。

しかし社会はそういうコンセンサスで動いているという側面があることも事実だと思う。

この小説はその側面を突いている気がする。

入れ「替わって」いるが、「変わって」はいない。

更に別のテーマも盛り込まれていると思う。
それは、この世は中身が入れ「替わって」いるが、本質は「変わって」はいないということだ。

 店長も、店員も、割り箸も、スプーンも、制服も、小銭も、バーコードを通した牛乳も卵も、それを入れるビニール袋も、オープンした当初のものはもうほとんど店にない。ずっとあるけれど、少しずつ入れ替わっている。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋 p51

また、社会に馴染めず、厭世的な白羽はこんなことを言っている。

「僕はいつからこんなに世界が間違っているのか調べたくて、歴史書を読んだ。明治、江戸、平安、いくら遡っても、世界は間違ったままだった。縄文時代まで遡っても!」(中略)
「僕はそれで気が付いたんだ。この世界は、縄文時代と変わってないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、鑑賞され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋 p84-85

毎日飲む水もコンビニの水で、自分の身体がコンビニの一部であると感じていた私(古倉)がコンビニを辞めた後、自分の身体を流れる水が入れ替わったのだろうか、と感じるシーン。

喉が渇いていることに気が付き、水道をひねってコップに水を汲み、一気に飲み干した。ふと、人間の身体の水は二週間ほどで入れ替わるとどこかで聞いたことを思い出す。毎朝コンビニで買っていた水はもう身体から流れ出ていき、皮膚の湿り気も、目玉の上に膜を張っている水も、もうコンビニのものではなくなっているのだろうか、と思った。

コンビニ人間(村田沙耶香)文芸春秋 p138-139

ムラ(一般社会)という生態系を維持するために生死を繰り返す人間がいて、コンビニの生態系を維持する為にシフト「交替制」で店員がいて、人間という一個体の生態系が維持される為に水が流れている・・・。

この世界観が、虚無感に近いものを感じさせる。

おわりに

「コンビニ人間」は平易な言葉で綴られているが、現代の人間社会に問いを投げかける純文学だった。

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