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【短編小説】国道とロードレーサー


 息を思い切り吸うために空を見上げれば天井知らずの青が広がっていて、吸い込んだ空気の涼しさが季節の移り変わりを教えてくれる。吸っては吐いて、また肺を膨らましては血を巡らす。上体を屈めて腕に込めた力でグリップハンドルを握り、腰をサドルから浮かしてペダルを踏み込めば、その瞬間、風の抵抗が強まって、視線の先のアスファルトが加速して流れていく。ゴールまでの距離は残りおよそ500mで、田園地帯を貫く直線だ。陸斗はゴーグル越しの視線の隅ですぐ後ろをつけている大河をみやる。笑ってやがる、ムカつく、とさらに力を込めてペダルを回す。
 新人戦のメンバーを決める部内レースでは足羽山の裾野をスタート地点として起伏の激しい峠を越え、それから山の裾野に沿う形で大回りをして国道8号線の裏に広がる農村道路に合流する。そして平坦な田園地帯を通り、ゴールに設定されている校門まで走り抜ける。1位には伝統のナンバーが記されたジャージが与えられ次期チームのエースに任命される。それから順に2位から5位までがエースを支えるためのアシストとして団体戦メンバーに選ばれる。
 陸斗はブレーキをかけることもせずに校門を通過しては力尽きて、ロードバイクごと倒れ込んで仰向けに転がる。そのままの体勢でゴーグルを外せば早朝の太陽が汗でぼやけた目に染みこむ。突然影が覆い被さってきて滲んだ空が遮られる。
「また俺の勝ちだな。 昼飯奢れよ」
 そう言いながらしゃがみこんで顔を覗いてくる大河が憎らしい。こいつは俺が全力で仕掛けたスプリント勝負にさえ余力を残して勝利を掻っ攫っていったのだと、陸斗は悔しくなって思いっきり大河を睨みつけてやればピースサインで煽ってくる、だけならまだしも
「陸斗、泣いてんじゃん!」
 なんて周りの部員にも聞こえる声で嬉々と騒ぎ出すから、陸斗は上半身だけを起こして大河のサイクルジャージの胸ぐらを掴む。
「ちょっと喧嘩しないでよ」
 給水ボトルとスポーツタオルを2人に押し付ける形でマネージャーの七瀬が割って入る。陸斗に手を差し出しながら
「ナイスファイトだったよ」
 と声をかける。サイクルグローブ越しにその手を取れば七瀬の柔らかい感触が伝わってきて、あぁ、新品のグローブをつけてきてよかった。臭くないかな、汗で湿ってないかな、とそわそわしてしまうけれども、そんな緊張を悟られないように平静を装いながら礼を言って立ち上がる。だけど、
「大河からもう少しで逃げきれそうだったんだよ。あの全国6位の大河からだよ」
 なんて七瀬が続けるから、やっぱり一気にテンションが下がる。大河、大河、大河、誰も彼もがあいつばかりに焦点を当てる。あーあー気に入らね、と陸斗は天を仰げば空は馬鹿みたいに青い。

 奢りとなると大河は一番高いメニューを選ぶから、その図々しさは見習わなければなと呆れを通り越した境地にいる陸斗の向かいの席で、大河の横に座る七瀬はちゃんと呆れている。
「大河はたかってるだけだよ。陸斗もそんな勝負受けなくていいのに」
 たしかにお互い中学生になったタイミングで地元の自転車屋が運営するクラブに入り、高校は自転車競技部の強豪校に進学してと、同じ環境で同じ強度の練習をこなしてきたにも関わらずいままでのどのレースでも陸斗が大河に勝ったことはない。
「遠慮を覚えなさいよ」
 と大河を戒める七瀬の姿を見てると妬けてくる。学食でも部室でも陸斗と大河は向かい合って座る。その時に七瀬がいつも選ぶのは大河の隣だ。昼食を食べ終えて、そのまま3人で次の公式戦の戦略を練る。レースコースの地形図を広げて勾配や直線区間を計算して勝負どころやペース配分を決めていく。そんな時だってお互いに意見をぶつけ合っていても、野次馬として集まってくる人間は全国区として名を馳せている大河ばかりに声をかけにくるのだ。

 自転車競技部の活動場所は公道が主になるため、正規の練習は始業前の早朝に行う。交通量が少なく思い切りスピードを出しても周囲に迷惑がかからない時間が適しているのだ。代わりに放課後はミーティングだったり、ローラーを使った調整や自重トレーニングを行う程度で長時間の活動は行われない。それは大抵の部員が部活とアルバイトを掛け持ちしているからでもある。
 自転車競技にはお金がかかる。ロードバイク本体に加えて、タイヤ、ギアやブレーキ周りなどの消耗品も多い。遠征費もかかる。部員の多くはバイトをして貯めたお金を活動費に充てていて、それは大河も陸斗も同じだった。同じファミレスでキッチンのバイトをして、高校生の労働時間上限の22時に上がり、8号線沿いの広い歩道を会話ができる速度で並んでロードバイクを走らせる。横並びでも話すことといったら次のレースのことか最近開催されたプロレースの感想を言い合うことくらいだ。
 特に今日は学食でひとしきり新人戦については話し合っていたから、話題はなかった。国道を走り去る乗用車の音に紛れて、道路沿いに広がる田園からは虫の鳴き声が混じって聞こえてくる。それを掻き消すように大河のスラックスのポケットから電子音が鳴って空に響いた。大河は片手をハンドルから離してスマホを取り出し、着信に出る。スピーカーの設定になっていたから隣の陸斗にまで話し声が聞こえた。七瀬の声だった。
「いま、チャリ乗ってる」
 大河はこともなげに電話を切る。陸斗はハンドルを握りしめて、今日感じていたわだかまりを口に出してしまっていた。
「今日のレースだけど、全力でスプリントしてた?」
「ん、9割くらい」
「なんだよそれ」
「文句は勝ってから言えよ」
「それじゃあ、いまから勝負しようぜ」
「今週の昼飯賭けるなら乗るけど」
「ポジションも賭けろよ」
「もちろん」
「撤回は無しだからな」
 そう言い合ってコースを取り決める。あの信号が変わればスタートだと、青に変わると同時に上体を傾けて思い切りペダルを回す。季節は秋で、肺に取り込まれる夜の空気は冷たく細胞の一つ一つに行き渡っていく。息を吸っては吐いて等間隔に並ぶ街灯に照らされた国道沿いを2人は駆けていく。

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