ぼくは芸術の真実に気付く

 ぼくは芸術の真実に気付く。一昨年の5月(正式には6月)に彼女と付き合い始めてから、ぼくは博物館や美術館へよく行くようになった。デートのためである。キャンパスメンバーズ制度(大学と各種施設の癒着制度)を使えば常設展は無料だし、企画展も割引になったりするし。ぼくと彼女が展覧会や美術展によく行くのは、ぼくも彼女も放送サークルで作品を作るひとだったからっていうのも関係ある(大学・団体は異なります)。

 由梨と付き合うまで、ぼくは展覧会や美術展にはほとんど行かない人間だった。由梨に連れて行かれても最初の頃は正直退屈で、由梨のペースに合わせて眺めていただけだった。だけど、ぼくとは違う視点や鋭い見方を由梨から教えられたりして、だんだんと楽しみ方が分かるようになっていった。

 といっても、ちゃんと楽しめているかはいまだに微妙なんですけどね。写真展はいまだに興味が湧かないし。でも、この前行った『中平卓馬 火―氾濫』は面白かったな。というか、最近はふつうに写真展も楽しめるようになってきた気がする。『恵比寿映像祭2024』もそうだった。ちょっと実験的な写真アートが多かったけど、素直に楽しんだ。

 『恵比寿映像祭2024』といえば、土屋信子というアーティストの作品を見て確信したことがあった。土屋信子というひとはジャンル的には造形作家で、身近にあるものを使って作品を制作している(らしい)。『恵比寿映像祭2024』では土屋信子の紹介パネルがあったので、ちょっと長くなるけど、そこに書かれてあった文章をここで引用する。

土屋信子
TSUCHIYA Nobuko


今回の恵比寿映像祭のテーマにも引用された《月へ行く30の方法》は、土屋信子が継続的に発展しているインスタレーションのタイトルである。土屋が世界各地で見つけ、時には廃材と見做されてしまうであろう「何でもないもの」は、スタジオで長期にわたって温存されたり、見つけられた場所や時間を様々に横断した組み合わせを試みられたり、まさに土屋の直感によって生成と解体、再生を繰り返しながら、詩的で物語性を帯びた有機的な彫刻へと形作られる。それは土屋の内省的なコミュニケーションであると同時に、時間の概念や素材の性質を超越する科学実験のようでもある。こうして生み出されるさまざまな感性や感覚のはざまに漂う土屋の作品は、言語や理論による解釈から解き放たれ、我々の想像力をも超えた存在として無限の可能性を秘めている。

 「ぼくと彼女は恵比寿映像祭2024へ行く」という記事に貼った写真を見てもらえば分かると思うんだけど、土屋信子の作品に実用性はない。まさに、「何でもないもの」を改造した作品ばかりである。特に、大きな縦長の段ボール箱で作った作品。壁面に穴が開いてあって、そこから中を覗くと、針金に毛玉を巻き付けたようなものが置いてある。ただそれだけ。

土屋信子の作品(縦長の大きな段ボール箱)

 ぼくは小学校低学年の時、段ボールの板を組み合わせて「テレビ」や「パソコン」の模型を作り、友達と「テレビごっこ」や「パソコンごっこ」をして遊んでいた。いまでも同じような遊びをしている子どもはいるんじゃないかな。土屋信子の作品も発想的にはそれと変わらない。では、土屋信子と子どもたちの違いは何か。それは、自分の作ったものを「アート作品として発表している」かどうかということだ。

 土屋信子は「月へ行く30の方法」シリーズとして継続的に作品を作り続けているというが、いくら土屋信子が大量の段ボール板を組み立て、作品の数を増やしていったところで、もしも土屋信子がそれらの作品を自宅の倉庫にしまいっぱなしにして、もしも誰にも見せないままでいたら、土屋信子の作品はアートとして永遠に認知されることがない。土屋信子もアーティストとして世に評価されようがない。

 そこなのである。「これはアートだ」と言って、とにかく発表することが大切なのである。土屋信子の作品はたしかに実用性がない。ぼくたちの日常生活には役に立たない。だけど、土屋信子の作品を見て、「楽しいな」とか「面白いな」とか「心を揺さぶれたぞ」などと感動して、なんとなく刺激を受けたり、なんとなく生きる糧になったりしたひとは何百人も何千人もいるはずだ(たぶん)。少なくとも、土屋信子が作った縦長の段ボール箱の穴を「この中には何があるんだろう?」と覗いている時、そのひとは希死念慮から逃れている。自殺せずに済んでいる。

 だから、ぼくは声を大にして言いたい。作ることと同じぐらい、発表することは大切なのだと。もしもあなたが何かを作ってみたら、それを他者の目に触れさせようとしてみてもいいんじゃないかと思う。もちろん、それで功成り名を遂げるアーティストはごく一握りでしょう。でも、どこかの誰かが発表した絵や文章が、どこかの誰かの気持ちを救ったり紛らわしたりすることは現実にあるのだ。

 ぼくも放送サークルで音声ドラマを作って番組発表会で上演し、お客さんから感謝されたことがある。モニターシートのぼくの作品の欄に、「最近ふさぎ込んでいたのですがこの作品を観て元気が出ました。ありがとうございました」と書かれてあった。作者本人としては出来に満足できていなかったので感謝されたのは意外だったが、もしぼくが「いまいちな出来だから上演は取りやめよう」と思って発表していなかったら、そのお客さんはしばらくふさぎ込んだままだったかもしれない。そう考えると、書いたものや描いたものや撮ったものや組み立てたものは、発表しないよりは発表したほうが望ましい。「0」にいくら掛けても「0」だけど、「1」がとりあえず存在していたら「1.1」とか「10」になるかもしれないからね。

 もちろんこれは、「作らないひとより作るひとのほうが偉い」とか「発表しないひとより発表するひとのほうが偉い」という話ではない。ただ単に、「もしあなたが何かを作ってみて、それを発表してみたら、どこかの誰かに良い影響が生じるかもしれない」というだけの話だ。

 でも、ぼくはその単純な話こそが芸術の真実だと思う。由梨と一緒に展覧会や美術展に行くようになって、ぼくはこの世には数え切れない数のアーティストがいることを知った。アート作品の中には分かりやすい風景画もあれば、意味不明な段ボール箱もあることを知った。いずれも、作品として発表されているからこそ、鑑賞し、解釈し、感想を抱く対象になる。制作者が「あえて」「わざわざ」発表しているからこそ、アート作品は、誰かの気持ちを救ったり紛らわしたりする代物になるのだ。

 ぼくはこれからも音声ドラマを作って上演し、「創作」と「発表」を実践していく予定である。実は最近、作品を発表することの意味をめぐって少し悩んでいたんだけど、土屋信子の作品に触れて、そこのところを自分の中で整理することができた。変に思い悩まず、自分の作りたいものを作って発表することが大事なんだよな。「考える前に跳べ」じゃないけどさ。多くのひとに気に入られようとか評価されようとか、そういう基準に気を取られて、自分を見失って委縮してしまっては元も子もない。自分が本気で面白いと思える作品を作って、まっすぐ発表すれば、きっとどこかの誰かに届いちゃうはずなのだ。ぼくの作品を観て「観る前より元気になったな」と感じてくれるひとが一人でもいたら、作者としてこれほどうれしいことはない。

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