ぼくは三島由紀夫に追いかけられる

 ぼくは三島由紀夫に追いかけられる。突然だが、ぼくは三島由紀夫があんまり好きじゃない。どこがどう好きじゃないのかって聞かれると答えるのが難しいのだが、うーん……ぼくは三島由紀夫という人物とその作品には心を惹かれないのだ。

 「心を惹かれない」だけなのになぜ「好きでも嫌いでもない」ではなく「好きじゃない」なのかというと、まあ、これは三島由紀夫がカリスマ視されている作家だからっていうのが大きい。なんていうか、三島由紀夫をディスるのは現代日本的にタブーみたいなところがあるじゃないですか。ぼくが一応文学部生だから過剰反応しちゃってるだけかもしれないけど。でも、実際そういう面はあると思う。「畏れ多い存在」というか「神聖視されている存在」というか。「ぼくは三島に魅力を感じません」なんて正直に公言したら、得るものより失うものが多い気がする。ぼくにとって三島由紀夫は取り扱い注意の物件であり、その厄介さゆえに「好きじゃない」のである。

 春休み期間中、ぼくは由梨(彼女)と神奈川近代文学館の『文学の森へ 神奈川と作家たち 第3部 太宰治、三島由紀夫から現代まで』という展覧会へ行った。三島由紀夫のコーナーでは、三島の長編小説『豊饒の海』の初版本が展示されていた。ぼくが高校1年の通学時間に電車の中で読んだ本だ。由梨に小声で「ぼく、高校生の時にこれ読んだ」と言ったら、由梨から「へえ、好きだったんだ」と返されて、ぼくは「いや、三島由紀夫は好きじゃない」と言い返したが、その時は展示室内だったのでそれ以上のことは細かく説明しなかった。一応、展示室内は静かにしないといけませんのでね。

 神奈川近代文学館を出たあと、港の見える丘公園と横浜マリンタワー内をうろつき、カプリチョーザ横浜元町店へ。一緒に晩ご飯を食べながらさっきの展覧会の話になったので、ぼくは安部公房の戯曲『友達』がいかに傑作であるかを解説する(展覧会では『友達』の初版本も展示されていたのだ)。その流れで由梨から「三島由紀夫のこと、好きじゃないって言ってたけどどうして?」と聞かれたので、ぼくは「ぼくは三島由紀夫が好きじゃないが、三島由紀夫を好きなひとまで好きじゃないわけじゃない」とことわった上で、「ユーモアを感じないから」とか「美しい文章を書くことが目的になっちゃってるから」とか適当な理由をでっち上げて説明した。

 由梨は「ふうん、わたしは読んだことないから分からないけど。今度読んでみようかな」と返してきて、それでこの話題は打ち止めになった。ただ、ぼくは由梨の言った「今度読んでみようかな」という言葉がちょっと気になったので、「……あのう、『豊饒の海』は長いからおすすめしません。初めて読むなら『命売ります』がとっつきやすいと思う」と補足しておいた。ぼくは三島由紀夫が好きじゃない割には親切なのである。

 それからしばらく経って、ぼくは、大田区の馬込文士村スタンプラリー(通称)に参加した。その時の話は、「ぼくは馬込文士村へ行く」というクソみたいな長文記事に書いたのでここでは繰り返さない。ただ、スタンプラリーの景品については触れておこう。というのも、その景品とは、三島由紀夫の短編小説『蘭陵王』の直筆原稿の写しだったからだ。

 ぼくは三島由紀夫があんまり好きじゃない。しかし、それなりにミーハーではある。「三島由紀夫の直筆原稿の写しを入手」という事態はテンションが上がる。しかも、その直筆原稿の写しの裏面に書かれてある情報によると、三島由紀夫は大田区馬込に住んでいた時期があったらしい。ぼくは「この前、ぼくは由梨に『三島由紀夫が好きじゃない』という話をしたばかりだよな」と自覚しつつも、生まれながらの大田区民として急に三島由紀夫に近しさを覚え、まだ読んだことのない『蘭陵王』を読んでみることにした。

 自宅の最寄りの大田区立図書館に『鍵のかかる部屋』(新潮文庫)を取り寄せてもらう。この文庫本に『蘭陵王』は収録されているのだ。長い小説だったら読むのが面倒だなと思ったが、いざページをめくってみたらショートショート並みに短い小説だったので助かる。

 三島由紀夫の生前最後の短編小説『蘭陵王』は、1969(昭和44)年の夏に行われた「縦の会」の戦闘訓練合宿時のエピソードを描いた私小説である。「縦の会」は三島由紀夫が結成した民間防衛組織だ。……なんていうか、この「民間防衛組織」っていうノリからしてぼく的には三島由紀夫に惹かれないんだよな。「割腹自殺」とか「肉体改造」もそうだけど。ぼくにはマッチョ志向思考がないので、やっぱり三島由紀夫は性に合いません。

 それはともかくですね。この『蘭陵王』という私小説は、筆者(=三島由紀夫)が「縦の会」の戦闘訓練合宿中に「S」という青年が奏でる横笛の音を聴いて感動する、というお話である。「S」というのは「縦の会」メンバーの男子大学生なのだが、ぼくはこの「S」が登場する最初の一文を読んだ段階で、三島由紀夫は「S」に性的に惹かれていたのだなと直感した。ぼくのゲイセンサーは優秀である。

 この行軍と午前中の攻撃の小隊長は、京都の或る大学から来たSが勤めた。
 Sは長身で健康だったが、いかにも烏帽子狩衣が似合いそうな顔をしていた。そのSが、横笛を能くして、長岡のある寺であいびきをしたときに、先に行って寺で待っていて、自分の吹く横笛で、女に所在を知らせたという話が私の記憶に残っていた。又、なぜ横笛を習う気になったのか、という私の問に答えて、能の「清経」のように、
「人にはいはで岩代のまつことありや暁の、月に嘯く気色にて船の舳板に立ち上り、腰より横笛抜き出だし、音も澄みやかに吹きならし今様を謡ひ朗詠し、来し方行く末をかがみて終にはいつかあだ波の」
 と謂った最期を遂げたいからだ、と答えたことが心に残っていた。現代の青年と一口に言うけれども、青年は実にさまざまである。

三島由紀夫『鍵のかかる部屋』新潮文庫,p.367

 三島由紀夫の秘めた思いが伝わってきて泣ける。長身で、健康な肉体で、ロマンチックで、癖のあるインテリ。「烏帽子狩衣が似合いそうな顔」というのがどういう顔なのかは分からないが、三島由紀夫にとってきっと「S」は性的に興味を感じずにはいられないタイプの青年だったのだろうなあ。

 文章を読み進めると、ぼくのその推測は確信へと変わる。「Sが『横笛を聴かせたい』と言ってきたので私は『入浴後やってくるがいい』と言った」というくだりは、いや、実際は三島由紀夫側が「部屋に来て笛の音を聴かせてほしい」と懇願したんだろうと感じる。「Sが横笛を吹いていたらさらに4人の学生がやってきた」というくだりにしても、実際には、三島由紀夫と二人きりになりたくなかった「S」が4人の友人を連れて行ったということなのだろうと感じる。そのことは、文中で三島由紀夫が「私は自室を10時の消灯時間まで学生に開放している」という言い訳じみた一文をわざわざ挿入していることからも察せられる。

 この私小説の最後は、「しばらくしてSは卒然と私に、もしあなたの考える敵と自分の考える敵とが違っているとわかったら、そのときは戦わない、と言った」という一文で結ばれる。ふむ、なるほど。『蘭陵王』を最後まで読んで、ぼくは三島由紀夫のイメージを改めた。三島由紀夫って本当はものすごく「かわいい」人物だったのではないか。健気でシャイで純情な乙女。三島由紀夫の場合、そういう自分を受け入れて開き直ることができず、克服しようとしちゃったのが悔やまれる。まあ、ゲイであることを他人に隠して女性と付き合ってるお前に言われたくねえよって感じでしょうけど。

 ……なんてことを思ったり思わなかったりしていたら、少し前、NHKラジオ第1の『伊集院光の百年ラヂオ』という番組で「三島由紀夫vs高校生」という企画が放送された。放送サークルに所属する身としては昔のラジオドラマやラジオ番組が紹介されているのが気になって、ぼくはこの『百年ラヂオ』を定期的に聴いているのだ。今回の『百年ラヂオ』で取り上げられていたのは1964(昭和39)年に放送されたという『高等学校の時間・国語教育』という番組で、高校3年生の男女が三島由紀夫の自宅へ行ってインタビューするという内容だった。

 「『小さな石につまずいた』という小さな出来事に意味を与えて文章にしていくのが小説家」と語っているのを聞いて「三島由紀夫、いいこと言うじゃん」と思ったり、「自殺がテーマの作品を書いておきながら昇華できずに自殺したので太宰治のことが嫌い」と語っているのを聞いて「あなたの場合はどうなの?」とツッコんだりしながら、ぼくは『百年ラヂオ』の「三島由紀夫vs高校生」の回を興味深く聴いた。肉声の力というのはふしぎなもので、ぼくはこのインタビュー音声を聴いたことで三島由紀夫に若干親しみを覚えた。少なくとも三島由紀夫はこのインタビューで高校生に向かって誠実に自分の信念を語っている。ぼくは誠実な人間は嫌いじゃない。

 なんだか、ここ最近のぼくは三島由紀夫尽くしだな。しかも、自分から関心を持って三島由紀夫のことを調べているからとかじゃなくて、三島由紀夫のほうからぼくに接近してきてるって感じ。彼女に誘われて行った展覧会でたまたま三島の作品が展示されていたり、勢いで参加したスタンプラリーの景品がたまたま三島の原稿の写しだったり、いつも聴いているラジオ番組でたまたま三島の生前の肉声が流れたり。……ぼくはもしかして三島由紀夫に追いかけられているのか?

 先日、由梨と一緒に神田明神へ桜(ほぼ葉桜)を見に行った時、由梨から「そういえば、三島由紀夫の『金閣寺』読んだよ。名作だねえ! 文章が美しくて繊細で、主人公の苦しみが胸に刺さった」と言われた。……はあ? いつの間に三島由紀夫を読んだんだ? しかも感動してやがるんだ? っていうか、ぼくがおすすめした『命売ります』はどうなった?

 ぼくが実は『金閣寺』は読んだことがないと告げると、ぼくは由梨から「なんで読んでないの! 読むべきだよ!」と説教された。理不尽である。ぼくは最近、由梨から『金閣寺』を読むように強く勧められているのだが、一つ思い出してほしい。ぼくは三島由紀夫のことが好きじゃないのだ。好きじゃないったら好きじゃないのだ。ただ、かつて由梨に言ったように、ぼくは三島由紀夫を好きなひとまで好きじゃないわけじゃない。その証拠に、三島の愛読者である早瀬(学部の後輩)はぼくのよき悪友だ。早瀬も『金閣寺』が好きだと言っていたな。

 ぼくは三島由紀夫があんまり好きじゃない。心を惹かれないし、性に合わない。正直にそう公言すると厄介なことになる気がするので、だから余計に好きじゃない。だけど、ぼくの身近にいる、ぼくに馴染み深い連中がそんなに「名作だ」「読むべきだ」「騙されたと思って読め」と騒ぐのなら、『金閣寺』ってやつを読んでみてもいいかなと、最近ぼくは思い始めている。

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