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ヤケクソで書いた、純文学になれなかった酒臭い小説風散文を供養する

「あの駅」

 また、間に合わなかった。いつも間に合わない、気づいたときにはあまりにも遅い。戻りたい。過去に戻りたい。
 七月二十七日。木曜日。深夜二十三時五十六分。今日の残業は長すぎた。赤いテールライトを輝かせ、電車はホームを過ぎ去って行った。駅を出た。手を挙げ、タクシーに乗った。田舎だから、空には星が見える。家へ帰った。あったのだ、帰る場所は。
 七月二十八日。深夜〇時三十七分。日付が変わっていた。そうして、家に入る。もう綾音は寝ている。ここは、安心で、安全だ。冷凍庫の氷を取り出す。少しのカシスリキュール、オレンジジュース。今日もカシスオレンジはうまくいかない。カシスオレンジを飲み干した。不味い。諦め、諦めジントニックを飲む。
 風呂に入った。時計を見た。もう二時を過ぎていた。そろそろ寝ようか。いや。待て。

 私はあの駅を忘れない。この辺の連中は、大学に通うときも、仕事に行くときも、いつだってあの駅を使う。ここは田舎だ。駅までは五キロほどある。当然、ほとんどの人にとってあの駅は建造物でしかない。なぜか、私にはそうは思えない。
 私はひたすらに過去を歩んだ。家も学校も嫌いだった。しかし、私は私の時間を過ごした。

 小学三年生。学校へ行くのを辞めた。家の近くに公園があった。公園の時計台の下。近くにいれば時計は進む。遠くにいても時計は進む。私はそれを求めていた。居場所がなかった。
 小学四年生。公園に飽きた。公園を出ようとした。出なかった。
 小学六年生。公園を出た。歩いた。一時間歩いた。たどり着いたのはあの駅だった。ここは駅が遠い。私は家に帰りたくなかった。帰りたい家をいつか持つことを誓った。私は誰かと結婚したかった。

 中学二年生。私はあの駅にいた。毎日毎日、一時間かけて歩いた。自転車は買ってもらえなかった。いや、いらなかった。走り出した列車を眺め、ホームに座っていた。私は家へ帰らなかった。学校へも行かなかった。ただひたすら、駅のホームへ脇から入った。毎日毎日、繰り返した。
 中学三年生。私はまたあの駅に通っていた。その日も、いつものようにホームに座っていた。スーツを着た男が私に声をかける。ガキが何をしていると。私は返事をしない。男は怒る。怒る。知るか。突然、冷たい目の駅員が私の手を引いた。睨む。睨む。声が出ない。駅員は怒鳴る。私は逃げた。電車に乗った。扉は閉まらない。私は手を引かれた。連れて行かれた。改札へ。駅員室へ。
 私は逃げた。走って逃げた。線路沿いを走った。靴が脱げる。足が擦れる。血が出る。痛い。痛い。日が沈む。空が染まる。走り出した電車は止まらない。止まらない。

 高校生。あの駅から電車に乗って、学校へ通った。あの駅までは、必ず歩いた。仲間はいなかった。あの駅まで行って、学校へ行かない日もあった。あの駅だけは私を受け入れた。
 大学一年生。やはりあの駅から大学に通った。あの駅までは必ず歩いた。酒を覚えた。数少ない連れから貰ったカシスのリキュールを、震えながら飲んでみた。不味かった。
 大学三年生。あの駅に行った。駅の隣にはバーがあった。なんとなく、バーへ入った。勧められるがまま、カシスソーダを口にした。不味い。客は私とあなただけだった。あなたはそっと、口紅のついたカシスオレンジを私へ渡してきた。
 驚いた顔をした私に、あなたは目を細め、微笑んで見せた。声が出なかった。あなたは何も話さなかった。私はカシスオレンジを一口含み、あなたに返した。甘ったるい。不味い。飲めない。ジントニックを頼んだ。あなたの目を見つめた。冷めた、魅惑的な、優しい目をしていた。私は不安を覚えた。
 大学四年生。気付けば私は、バーの常連になっていた。あなたは、決まって毎週金曜日にバーに来た。といっても、何故か来るのは一時頃だ。決まって頼むのは、カシスオレンジだった。決まって、一杯しか飲まなかった。決まって、自信のない顔をしていた。私は、いつだってあなたに何も話せなかった。貨物列車の音と小さな音楽だけが、店に響いていた。

 その後、私は大学を卒業した。市役所の職員として勤務を始めた。当然、あの駅から電車に乗る。私は、あの駅までバスを使うようになった。とはいっても、金に余裕もでき、バスが無ければタクシーに乗って帰っていた。金曜日の夜には、バーに通った。閉店の朝四時まで、私はバーにいた。あなたは、三時になるといつも帰る。
 ある日、私は、あなたに初めて話しかけた。あなたのことは、何一つわからなかった。名前さえ教えてくれなかった。ただ、頷いて、微笑んで、受け入れてくれる。それだけで充分だった。社会人を始めてから一年間、そんな金曜日が続いた。
 二十三歳。ある金曜日、バーに入った。程なくして、あなたがバーに入ってきた。あなたは泣いていた。静かに、泣いていた。あなたは私の隣に座った。涙が落ちた。
 私の前にはジントニックが置かれた。あなたの前にはカシスオレンジが置かれた。結局私は、カシスオレンジを飲めないままだ。あなたは、カシスオレンジを口に含んだ。私も、ジントニックを口に含んだ。
 突然、あなたはカシスオレンジを、ジントニックに注いだ。混ざる。広がる。慌てて、私はあなたの手を握った。手が触れる。混ざらない。混ざってほしい。混ざってほしくない。話したい。話したくない。
 あなたは、グラスを落とした。あなたの手から血が流れる。あなたは私の目を見た。床に零れたカシスオレンジに、赤い血が滴る。汚い。あなたは私に手を伸ばした。シャツを掴んだ。汚い。汚い。血が付いた。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。汚い。

 私は店を飛び出した。私はそれから、バーに行かなくなった。

 二十四歳。家庭を手に入れることが約束された。小学六年生から続いていた私の夢は、同僚だった綾音によって呆気なく叶えられた。綾音は私と付き合い、結婚することを見据えていた。綾音の両親も、私の両親も、意外にも喜んで互いを受け入れた。
私は幸福だった。

 綾音との挙式の日も無事に決まった。七月二十九日だった。市役所の職員どうし、休日の土曜日に挙式する。綾音は、私を一途に愛した。言葉を掛けるとき、綾音は必ず私の目を見る。私は、綾音の目が嫌いだった。綾音の目は、純真だ。吐き気がした。綾音のことは愛しているが、目だけは嫌いだ。

 七月十三日。木曜日。私は仕事の関係で、あの駅に行った。市役所の職員として、行かなくてはならなかった。そして、あのバーの前を通った。昼過ぎのこの時間、まだ空いていなかった。が、張り紙に私は慄いた。七月二十七日で閉店。思い出も消えるのだと、ため息をついた。そう、思い出。ただの思い出となっていた。
 歩き出そうとした。信号が赤だった。立ち止まって待った。話し声が聞こえた。どうやら二人組だ。片方がバーの常連のようで、私と同じような反応をしていた。声に聞き覚えがあった。
振り返った。あなたがいた。あなたは、驚いた顔をしていた。私は、声も出ず、逃げた。

 七月二十二日。土曜日。綾音に連れられ、綾音の両親と食事に行った。綾音の両親はいつでも私によくしてくれた。この人たちのためにも、綾音と幸せな家庭を作ろう。そう思った。

 今まで、そんな過去を歩んでいる。私は、未だに嫌いなカシスオレンジを飲んでいる。何故だ。何故だ。
 今日は、七月二十八日。金曜日。腕時計は深夜二時二十八分を指す。あと三十分であなたは帰る。嫌だ。私は腕時計を床に投げつける。進むな。
 気づけば私は、裸足で家を飛び出している。タクシーはいない。ここに来るはずもない。財布を忘れた。仕方ない。走るしかない。会いたい。
 私は大学三年生のあの日から一度だって、あなたを忘れることができない。あなたはいつだってあのバーにいる。あの小さな駅の隣の、小さなバーの中に、一人でいる。たった小さなバーの空間さえ、私は支配できない。あなたの何一つさえ、私は知らない。カシスオレンジの良ささえ、最後まで知らないままで。
 走る。痛い。足を見る。血だらけだ。知るか。走る。走る。公園がある。時計台がある。二時三十五分くらいだ。時計は進んでいく。嫌だ。着かない。着かない。
 会いたい。あなたに会いたい。走る。走る。何もない。遠すぎる。公園から何もない。今何時かもわからない。だが、あなたに会いたい。声を聴きたい。名前を知りたい。今会わなければ、もう会えない。周りを見る。
 家、家。家ばかりだ。遠くには山、山。ここは田舎だ。空には星。
 目指す、あの駅。


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