ネット上でも「狂気を楽しめない奴は正気が無い!」のであって「ちゃんと生きないとロクな死にかたできないぞ!」なのだ。

『怒りや悲しみの感情は、伝染しやすい。この「情動感染」(emotional contagion)はソーシャルメディア上でも起こることが分かっている。それが見知らぬ他者同士を敵と味方の対立軸に引き込んで、「まともな議論」を一蹴してしまうのだ。〈バイラル性は複雑さと両立しないため、文脈や詳細はあっという間にはぎ取られる。残るは論争そのものだけとなり、それがいかにでたらめや、ばかばかしいものに思えようと、論争に「参加」すべきだと感じる人びとが図らずも広めることになる。そういう人たちは大事になりすぎだと愚痴をこぼすが、大事にする張本人は自分たちなのだ〉(*2)その時、ソーシャルメディアは、わたしたちの感情を「ハッキング」する方向に間違いなく作用する。~誰もが「情動感染」を起こした自分の「感情」=「怒り」の真偽を疑ったりはしない。むしろエキサイトした状態で「感情そのもの」の信憑性を問うことは、当人にとってはナンセンスに思えるだろう。「私はこんなに怒りを感じている。だからこそ、この問題には他を差し置いてでも介入すべき重大性がある」と考えてしまうのだ。しかし実際には、「ソーシャルメディア上で大きな話題になっているから、怒りを感じている」のではないだろうか。もうひとつの主な要因は、先の「バイラル性」とリンクする話ではあるが、「社会問題の関心領域」をソーシャルメディアに依存する私たちの傾向である。コミュニティの崩壊に代表されるソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の衰退は、分断と孤立を加速させ、「顔が見える社会的な関係性」を縮小させた。世代や性別、職業、もっと言えば社会階層を横断する多様なネットワークを持つ人々が、単純に少なくなっているのだ。そうなると、ますますソーシャルメディアを中心とするデジタルコミュニティへの依存度が高まることになる。極端な話、ソーシャルメディアで話題にならない出来事は、どんなに不愉快な出来事であっても「存在しないもの」として認識されるしかなくなっている。私たちは要するに、「社会問題の関心領域」を、ソーシャルメディアのアルゴリズムの選択と決定に「丸投げ」している、というわけである。「感情のハッキング」と「関心のハッキング」がほとんど同時に起こることで、わたしたちは絶えず自動的に「オンライン上の闘争」に飛び込むよう促されている。「こんなふざけた連中の発言を許してはならない!」と──。このような前提を踏まえた上で注意しなければならないのは、炎上の炎によってある対象が照らし出されることによって、「それ以外のものが暗がりに埋没して見えなくなる」弊害である。心理学者のポール・ブルームは、ある種の「共感」に基づく関心が一つの物事に集中することにより、それ以外が見えなくなる現象を「スポットライトとしての共感」と名付けた(*3)。例えば、井戸に落ちた一人の少女の救出劇に何十時間も多くの人々が釘付けになる一方で、海外で飢餓により命の危険にさらされている何十万人もの名もなき子どもたちには目が向かない、というアンバランスなことが普通に起こり得る。「共感のスクラム化」による視野狭窄であるといえるだろう。いわゆる広告に対するクレームのような「表象へのバッシング」は、批判の矛先が企業や団体など明確な「窓口」を持つ組織に向かうことも多く、消費者的な立ち位置から批判が行いやすい。しかも、スマートフォンでテキストを労せず打ち込むことができ、「可処分時間」を大して使わずに激しいメッセージを伝えることができる。謝罪や撤去に追い込めば「成功体験」がもたらされ、「オンライン上の闘争」に勝利の1ページが加えられることになる。めでたし、めでたしというわけだ。~この厚顔無恥な態度にしばし呆気にとられた反面、男性が現在の社会状況を熟知していることに軽い衝撃を受けた。わたしたちが、地味で目立たない「個人の悲惨さ」よりも、オンライン上で盛り上がる「トレンド」に食い付く習性を持っていることをよく理解しているのだ。実のところ、程度の差はあるものの、同様の考え方をしているマネジメント層はまだ珍しくないのである。一昔前に比べて社会運動は、ソーシャルメディアの特性を駆使して組織化しやすくなった。けれども、それは「ソーシャルメディア上で完結する社会運動」をも副産物として生み出した。ネットで署名して、送金して、それで一丁上がりというわけだ。これにより、かえってひとりひとりの「可処分時間」が奪われ、直接的な関わりが求められる社会運動には及び腰になる点が問題視されている。その上、社会運動の火種となる争点(イシュー)が、多様な人間関係を背景にした直接的なコミュニケーションの結実としてではなく、前述したようにソーシャルメディアのアルゴリズムに半ば委ねるような状態から出現している。「特定のプラットフォーム」にどっぷり浸かっていることの危険性に、わたしたちはあまりにも鈍感だ。~炎上しやすい「表象」のみに強烈なスポットライトが注がれ続ける一方で、無数の「個人の悲惨」が産み落とされる膨大な暗がりは、いよいよその濃さを増していってはいないか。失われたつながりを取り戻し、デジタルの熱狂からいかに距離を置くか──などと言葉にするのは簡単だが、冷静な「感情」と「関心」を回復することは人によっては至難の技だろう。わたしたちは大きな岐路に立たされている。』

今のインターネットインフラを使ったSNS等を使った「炎上」騒ぎはいずれ淘汰されるだろう。既存のメディアでさえ「ネットで話題の」とかの枕詞をつけて叩きやすいヤツを見つけてはストレス解消の為にボコボコにする狂乱や熱狂に浮かれている間にプラットフォームの中では着実に実体との信用調査が行われている。信用スコアとはなにも経済的な側面だけではないのだ。ネット上でも「狂気を楽しめない奴は正気が無い!」のであって「ちゃんと生きないとロクな死にかたできないぞ!」なのだ。

『宇崎ちゃん』と「オバマの苦言」炎上騒ぎに誰もが加わるべきか、否か
感情を「ハッキング」されていないか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68395

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