この性差と個人差のある生理現象をきちんと捉えるには「生理学」的側面と「心理学」または「社会学」的側面による配慮の両方が必要なのだと思う。

『ただ単に「生理について語ろう」「オープンにしよう」と主張するのであれば、それは“露悪”と捉えられても仕方がない。しかし、女性スタッフの働きやすさや客とのコミュニケーションを真剣に考えた上での「生理バッジ」の導入は、それには該当しないだろう。いずれにしても、「生理バッジ」は「試験的な導入」とのことなので、批判を受けて廃止されることも考えられる。しかし、こうして「生理であることを明かすこと」に対する議論が巻き起こっただけでも、一石を投じた意義があったのではないだろうか。私は、今回の批判の中に、「汚いことをアピールするな」「穢らわしい」といった意見がなかった(管見の限りだが)ことに、日本社会の月経観の「進歩」を感じた。数十年前なら、そういう意見もあったに違いない。~生理を“排泄現象”、“経血”を排泄物と捉えれば、それを「恥ずかしい」「隠したい」と考えるのは当たり前のことである。人が服を着て生活し、個室で用を足す限り、この感覚がなくなることはないだろう。生理を「隠したい」「語りたくない」という気持ちも尊重しつつ、生理についての社会の理解を深めることが必要である。そうすれば、女性たちはもっと学びやすく、働きやすく、生きやすくなる。女性が生きやすい社会は、男性その他の性も生きやすい社会であるはずだ。生理に関するさまざまな試みが“炎上”している現在は、月経観が変わり行く過渡期といえるだろう。』

私はいつも「性教育」というひとくくりの知識の伝搬に疑問をいだいていた。女性と男性とは「生理学」的に違う構造なのだから「生理学」としての女性の身体の仕組みと男性の身体の仕組みを学ぶのと異性に対する欲求としての「性欲」と如何に付き合うかという「心理学」または「社会学」として学ぶのは意味合いが違うのでないかと考えている。男性は精子が溜まれば自慰行為等の外的刺激によって自己のコントロール下で排出できるが、女性の場合は定期的に経血を伴って男性よりは大掛かりな仕組みで排出されるので個人差はあれどそれなりの対処が個々人で必要なのだ。この性差と個人差のある生理現象をきちんと捉えるには「生理学」的側面と「心理学」または「社会学」的側面による配慮の両方が必要なのだと思う。殊更に難しく考える訳ではない。要は相手を尊重して気遣えば良いだけなのだ。

「生理バッジ」大炎上…それでも日本社会の月経観は「進歩」している
生理中かどうかを明かす意味と覚悟
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68671

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