キリシタンたちが殉教した時に歌った六つの聖歌

長崎・西坂の殉教地・26聖人レリーフの前にて
結城了悟神父とルカ神父・最後の訪問・26聖人記念館にて
放虎原殉教地・大村市
鈴田牢屋跡地・殉教者たちが収容されていた・大村市
多くの神父とキリシタンが処刑された今村処刑場跡地・島原市
殉教者たちの首だけが埋められた首塚の跡地・大村市
原城跡地の首塚・島原市
殉教した中浦ジュリアン神父・ウルバーノ・モンテ年代記に描かれている少年の時の絵


殉教者たちが首と胴を切断されて別々に埋められた胴塚跡・大村市

キリシタンたちが殉教した時に歌った六つの聖歌

はじめに
1549年(天文18)フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が日本にキリスト教を伝えて以来、キリスト教の教える慈愛に満ちた教理と、神の与える真の永遠の命を信じたキリシタンたちは、自分たちよりも貧しい人々に対して見返りを求めない奉仕活動を通しての働きは、この時代の社会で異教徒たちを入信に導いた一番効果的な方法だった。無私無欲でキリストに仕えるように人々に仕える名もなき信者たちの姿は、誠の言葉無き宣教だった。

信徒組織・コンフラリア
キリストを救い主として受け入れ信じたキリシタンたちは、貧しいながらも互いに助け合い共棲する生き方を見出した。キリシタン同士が寄り合い助け合うために信徒組織(コンフリア)を構築した。

信徒組織(Confraria de Misericordia・慈悲の信心会)とは、信仰共同体における兄弟会を意味している。信仰を生活の基盤として持ち、相互扶助、すなわち互いに助け合い励ましあいながら自分と相手の人格とを高めあうことを目的とした信徒達の共同体として発展していった。キリストにある平等という信念に基づき、地位、階級、貧富などの差別を克服して、相互扶助を実践していった。貧しい人々、虐げられた人々(被差別部落・穢多,非人)、見捨てられた病人(ハンセン病・癩病等)、流浪の乞食等に手を差し伸べていった。これらの人々に対してまず自分達が『共生』を実践して見せ、賛同を得た回りの人々と共に働き、社会事業として定着させ、結果的には布教活動に結び付けていった。

殉教者たちの証
「迫害とは、信仰を棄てさせようとする権力者の暴力であり、殉教とは、その信仰の真実をあかしし、キリストへの愛を示すため、自由に捧げる命の犠牲である。日本での迫害は、長く、厳しかったが、キリシタンたちの証は輝かしいものであった。」100頁
*結城了悟著『ザビエルから始まった日本の教会の歴史』女子パウロ会 2008年

「日本に於けるキリスト教の歴史では、殉教者たちの証は特に意義深い。日本に生まれ、キリストの教えを信じ、身をもってキリストの苦しみを背負い、命を捧げた殉教者たちは、日本の教会の誉れである。彼らは真の意味で心の貧しい人々であった。人間としてすべての権利を奪われ、権力者の絶え間ない圧迫の中で生きたが、彼らの謙遜な忍耐は、ついに迫害者の力に打ち勝った。

聖フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)の上陸(1549年)以来、日本で行われた人間的な出会いと、殉教者たちの英雄的な態度の結果として、キリストの教会は日本にも市民権を得、日本の文化の流れに融け込んでしまった。その教会に属するわたしたちは、現在と将来の日本の発展と人々の幸福のために力を尽くす責任がある。」8~9頁
*結城了悟著『ザビエルから始まった日本の教会の歴史』女子パウロ会 2008年

殉教者たちが歌った聖歌
 
イエズス会の残した記録『16・17世紀イエズス会日本報告集』、フロイス(Luís Fróis)神父の「日本キリシタン史」、レオン・パジェス著「日本切支丹宗門史(3巻)」等には、多くのキリシタンたちの殉教していく姿が記録されている。 

彼らの殉教するときの姿には、神により頼む純粋な信仰心が表されている。それと共に、いかに殉教者が神と共に生きる永遠の命を希求していたかが描かれている。 

殉教するときに歌った聖歌は「殉教の時に歌う特別な聖歌」ではなく、つねずね日々の生活の中で唱えていた「オラショ」と共に歌っていた祈り(オラショ)のなかの聖歌であり、生活を支えている信仰心から歌っていた祈りの聖歌だった。いかにキリシタンにとって、日々の祈り(オラショ)と密着した聖歌が,死に臨んだ時にも、自分の信仰を支え、オラショと一体化した聖歌を歌いながら殉教していった姿が、そこには描かれている。 

私たちも今一度、日々の生活の中で祈りながら歌う聖歌(讃美歌)の中の、神の御言葉であるこれらの聖歌・讃美歌を心して見直し、いつか私たちにも訪れる死の時に、神に感謝をもって雄々しく歌う聖歌(讃美歌)が歌えるように日々努めなければならないと思っている。 

一般信者たちが歌った聖歌
日本にキリスト教が入ってきた1550年(天文19)当時、一般信徒の識字率は非常に低く、また音楽に関しては、キリシタンになった者でも音楽教育を受ける機会もなく楽譜も読めないことは致し方のないことであった。 

しかし、信仰共同体である信徒組織(コンフラリア)においては、信徒たちは歌詞を書き写して自分の本(写本)として持ち、旋律は歌を覚え(暗記して)共に歌える聖歌を一緒に歌っていた。当時、日本には楽譜を書き写すという行為そのものはなく、歌詞にどの音を出すか、というような書き方(例・長唄の楽譜, 箏の楽譜等参照)しか、記譜の方法がなかった。

サルヴェ・レジナの手写し写本・外海民族資料館所蔵

確かに歌の数は少ないかもしれないが、それでも信仰を維持するには少ない数の歌を共に歌うことで十分だった。聖歌を共に讃美することによる連帯感がそこには生まれ育って行き聖歌を歌うことよってキリシタンたちの信仰は強められていった。 

グレゴリオ聖歌の訓練を受けた聖歌隊は教会歴に合わせてミサ曲を変えて歌うことができたと考えるが、一般信徒にはそのようなことはできなかった。曲を変えて歌うよりも、毎週同じミサの曲をくり返し歌うことで曲に馴染み暗記することができ、共同体の中でも皆でそのミサ曲を共に歌うことができるようになる。音楽の力で皆が心を一つにでき信仰が強められていった。 

イエズス会の記録からと当時一般信徒が歌っていたグレゴリオ聖歌を書き出してみた。興味のある方は是非これらの聖歌を歌っていただきたい。当時のキリシタンたちの歌っていた聖歌を歌うことで400年前のキリシタンたちが歌っていた聖歌の追体験ができるだろう。一見単純に聞こえるグレゴリオ聖歌の旋律が持つ普遍的な価値と信仰を維持する大きな力に歌うことで気付いていただけたら幸いである。 

グレゴリオ聖歌・羊皮紙・五線譜・スペインの修道院で使用・1500年代
縦75㎝ 横51㎝ 髙田重孝所蔵

日本のキリシタン時代の教理門答書『どちりいなきりしたん』(1600年)のなかに、現在の形とほとんど同じ形で書かれている。1560年代に制定された最初期の祈祷文・オラショの形が、旋律を含めて日本各地のキリシタンによって、現代まで450年間の長きに渡り、忠実に形も変えずに伝承されていることは驚異的な事である。

キリシタンたちが殉教するときにラテン語で歌った六種類の聖歌

1 主の祈り(主禱文)
2 クレド(使徒信条・信仰宣言)
3 アヴェ・マリア(天使祝詞)
4 サルヴェ・レジナ(憐みの御母)
5 らおだて・主を褒め称えよ(Laudate Dominum)詩編117編
6 なじょう・預言者シメオンの讃歌(Nunc dimittis servum tuum Domine)ルカによる福音書2章28~32節

☩ ラテン語

主の祈り・パーテル・ノステル・Pater noster
Pater noster,qui es in caelis sanctificertur nomen tuum:
Advénat regnum tuum: Fiat volúntas tua, sicut in coelo et in terra.
Panem nostrum quotidiãnum da nobis hódie:
Et dimite nobis débita nostra, sicut et nos dimittimus debitóribus nostris. Et ne nos indúcas in temtatiónem. Sed lìbera nos a malo.

信仰宣言・クレド・Credo 第1
Crédo in úum Déú. Patrem omnipoténtem. Factórem caéliet térrae, visibilium ómnium.
Et invisibilium. Et in únum Dónum Jésum Christum, Filium Déi unigénitum.
Et ex Pàtre nàtum ante ómnia saécula. Déum Déo, lumen de lúmine, Déum vérum de Déo véro. Génitum,non factum, consubstantiàlem Patri: per quem ómnia facta sunt.
Qui propter nos hómines, et propter nósteam salútem descéndit de caelis.
Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine: Et hómo factus est.
Crucifixus étiam pro nóbis: sub Póntio Pilàto passus, et sepúltus est.
Et resuréxit tértia die sec úndum scriptúras. Et asc éndit in caelum:
sédet ad déxteram Patris. Et iterum ventúrus est cum glória, judicàre vivos et mórtuos:
cújus régni non érit finis. Et in Spiritum Sanctum, Dómiunm, et vivificàntem: qui ex Patre Filióque procédit. Qui cum Patre et Filio simul adoràtur, et conglorificàtur: qui locútus est per prophétas.
Et únam, sanctam, cathólicam et apostólicam ecclésiam.
Confiteorúnum baptisma in remissiónem peccatórum. Et exspécto resurrectiónem.
Et vitam ventúri saéculi. Amen.

アヴェ・マリア・Ave Maria
Ave Maria, gràtia plena; Dóminus tecum; benedicta tu in muliéribus,
Et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatóribus,
Nunc et in hora mortis nostae. Amen.

サルヴェ・レジナ・Salve regina
Salve Regina, Mater misericordiae; vita,dulcédo et spes nostra salve.
Ad te clamàmus éxsules filii Hevae.
Ad te suspiràmus gemétes et flentes in hac lacrimàrum valle.
Eja ergo, adovocàta nostra, illos tuos misericórdes óculos ad nos convérte.
Et Jesum, benedictum fructum ventris tui,
Nobis post hoc exilium ostende.
O Clemens, O pia, O dulcis, Virgo Maria.

らおだて・詩編117編
Laudate Dominum omnes gentes, laudate eum omnespopuli.
Quoniam confirmata est super nos misericordia ejus, et veritas
Domini manet in aeternum. Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio et nunc et semper: et in saecula saeculorum, Amen.

なじょう・シメオンの讃歌・ルカによる福音書2章28~32節
Nunc dimittis servum tuum,Domine, secundum verbum tuum in pace:
Quia viderunt oculi mei salutare tuum: quod parasti ante faciem omnium populorum:
Lumen ad revelationem gentium et gloriam plebis tuae Israel.
Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto. Sicut erat in principio et nunc, et semper,
Et insaecula saeculorum, Amen.

キリシタンたちが自分の信仰の告白として歌った四つの聖歌の殉教の記録
1、 主の祈り
2、 クレド・信仰宣言
3、 アヴェ・マリア 
4、サルヴェ・レジナ

*有馬の殉教者 1613年(慶長18)10月17日 島原半島の有馬に於いて

『1613年(慶長18)10月7日、島原・有馬の日野江城下の河原にて火刑に処せられた、アドリアーノ髙橋主水と妻ジョアンナ、レオ林田助右衛門と妻マルタ、及び18歳の娘マグダレナと11歳の息子ディエゴ。レオ武富右衛門と息子パウロ団右衛門の八人。島原中の約2万人のキリシタンが集まり、主の祈り、クレド、アヴェ・マリアを歌いながら、火刑に処せられる8人を励ました。』
*日本切支丹宗門史 上巻 レオン・パジェス著 311~313頁 

 『アドリアーノ髙橋主水とヨハナ夫人、レオ林田助右衛門、マルタ夫人と二人の子供、マグダレナ19歳、ディオゴ12歳。レオ武富勘右衛門とその息子パウロ。計八名。
 
10月17日の朝、囚徒たちは牢から引き出された。彼らは、聖母の会の頭から贈られた晴れ着を着、子供の外は、腕を十文字に縛られていた。殉教者は、銘々二人の会員の間に挟まれて進み、片手には灯のついた蝋燭を持ち、片手にはロザリオを持っていた。先頭は、聖母の連祷(Litaniae Lauretanae・さんたまりあのらだにあす)を歌っていた。彼らは道を横切っている小川を舟で渡った。然るに、ある高貴なキリシタンは、殊に子供を背負って浅瀬を渡し、面目を施したいと思っていた。然し、子供は慎ましく之を断った。侍がその理由を尋ねるとディオゴは素直に答えた。「イエス様はカルヴァリオ山に歩いて行きました」 

キリシタンたちは、もう遺物を尊重して難行者の衣服を引きちぎって行くのであった。創手までが、前以って犠牲者の許しを乞えば、犠牲者は悦んで之を許した。 

レオ勘右衛門(武富)は、豪の上に登って、二言三言口をきいた。漸く人々の聞き取れたのは僅かに次の言葉であった。『我々は天主様の御栄のために、又信仰の証のために死んでいくのです。我が兄弟たちよ。皆様方も信仰をお守りくだされ』

 時宛も、会全部の司であるガスパル栄太夫は、殉教者達の前に我が主の十字架の像を高く捧げて彼らを激励した。この間、キリシタンたちは皆「使徒信教・クレド」と「主禱文・主の祈り」「天使祝詞・アヴェ・マリア」とを歌っていた。 火は点ぜられた。之等すべての魂は、このエリア(列王記の預言者)の車に乗って、意気揚々と天に昇って行った。

 一番初め縄目の切れた子供は、まだ息のある母の方に向かって行き、母はその子に言った。「御覧よ、天を」子供は母によりよったかと思うと息が絶えた。感心な童女マグダレナは、燃え盛る薪をかき集めてそれを己の頭に乗せ『尊敬のしるしに頭に乗せます』とでも言っているかのように見えた。彼女は、主が興へ給うた無限の聖寵を感謝して、その薪を愛し拝んでいた。やがて頭を右手にもたせたまま息が絶えた。

 キリシタンたちは、遺骸を持ち去ることができた。或る者は、信心のためにマグダレナの両腕を奪って行った。彼らの尊い遺物は皆に長崎に運ばれた。神津浦の信者に引き取られたマグダレナの遺骸は、後に他の遺骸と一緒にされた。キリシタンたちは、この殉教地を尊び、馬に乗って通る人は、皆下馬して祈祷した。』
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史・上巻』312~313頁

『1619年(元和5)11月18日、長谷川権六はイエズス会のレオナルド木村と長崎における神父たちの宿主に死刑を宣告した。ドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主・村山東安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主・吉田、一名吉田秋雲、オルスッシとヨハネ・デ・サン・ドミニコの二人の神父の宿主・コスメ竹屋、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士の宿主・ポルトガル人ドミニコ・ジョルジの人々であった。中略 

彼らは苦しみを受けながら、騒がず従容として死につき永遠の勝利を得た。ジョルジは、確っかりとした高い声で使徒信教・クレドを唱え「人体を受け・Incarnatus est」という文句を口にした時、息を引き取った。 

レオナルド木村は炎が縄を焼き切った刹那、地面まで屈み、燠を恭しくかき集めて、それを天の紅玉ででもあるかのように頭に乗せて讃美歌「主を褒め讃えよ」Laudate Dominum 詩編117編を歌った。』
*日本切支丹宗門史 中巻 レオン・パジェス著 110~112頁

1 主の祈り・Pater noster (Oratio Dominica)【400年頃成立した単旋律聖歌】 

☩ ラテン語

主の祈り・パーテル・ノステル・Pater noster
Pater noster,qui es in caelis sanctificertur nomen tuum:
Advénat regnum tuum: Fiat volúntas tua, sicut in coelo et in terra.
Panem nostrum quotidiãnum da nobis hódie:
Et dimite nobis débita nostra, sicut et nos dimittimus debitóribus nostris.
Et ne nos indúcas in temtatiónem. Sed lìbera nos a malo. 

【歌詞】
天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国に来たらんことを、御旨の天に行われる如く地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日も我らに与えたまえ。我らが人に赦す如く、我らの罪を許したまえ。我らを試みに会わせず、我らを悪より救い給え。アーメン 

オラショ・主の祈り
天に存す、我等が御親、御名を尊まれ給え。御代きたり給え。天に於いて思召すままなる如く、地に於いてもあらせ給え。我等が日々の御養いを今日我等に与え給え。我等人にゆるし申すごとく、我等が罪を許し給え。我等をテンタサンにはなし給う事なかれ。我等を凶悪よりのがし給え。アーメン
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ「主の祈り」

聖書では「主の祈り」は、マタイによる福音書6章9~13節、ルカによる福音書11章2~4節の2ヵ所に記されている。教えの対象がマタイでは群衆に対して、ルカでは特定の弟子たちに対しての教えとなっている。 

古くは聖書の朗読(御言葉・主の祈りを会衆一同で唱えていた)であったのが、400年代より信者たちが唱えていた主の祈りが時代を経て唱えられているうちに次第に抑揚が付けられて自然発生的に歌うようになったと考えられている。古くは400年頃の『アンブロシウス聖歌写本340~397年』で確認できる。グレゴリウス1世(540~604年)の統治時代に正式にグレゴリオ聖歌として公式に聖歌として扱われるようになった。最も古い朗唱が旋律となり歌の形に変わっていった聖歌のひとつ。 

『主の祈り・Pater Noster』は3種類ありグレゴリオ聖歌のなかで広く用いられている旋律は2つある。ひとつは祝祭日用、もうひとつは週日用である。 

(A)祝祭日用の旋律
最古の写本は、南イタリアに伝わる1000年頃のもので、非常に古くから歌われていた旋律である。1200年頃には、フランシスコ会とドミニコ会が採用して、広く公に用いられるようになった。祝祭日用の旋律は複雑な詩編唱定型に似ているが、朗唱する際、言葉のほとんどをB音で歌い、曲の終わり近くになってA音が用いられる特徴を持つ。終止音はG音かA音で終わる。

主の祈り・現代譜・カットリック聖歌伴奏譜 253~254頁

(B)週日用の旋律
祝祭日用の旋律を簡素にした形を持つ旋律で、最古の古い写本は1150年頃のカルトゥジオ会の写本の中に書かれている。
*カトリック聖歌伴奏集 306~307頁 

(C)あとひとつの旋律は9~13世紀に作られた旋律(*トロープス付)の『主の祈り』(F-LA 263, f.138r~138v)で、主の祈り自体の本文が非常に単純な旋律の定型に付けられていて、同じ装飾音(メリスマ)が各小節の終わりに出てくる形を持っている。既存の週日用の『主の祈り』の旋律に自由な変奏を用いた旋律と考えられている。 

プロテスタント教会で唱えられている『国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。』はDoxologia・ドクソロジー、栄唱、神を賛美する歌。聖書の言葉の中にはない。式文として後の1100年以後に、主の祈りの後に続けて唱えられるようになった。 

『Gloria in excelsis Deo』がThe greater doxology が大頌栄と呼ばれ、『国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。』は小頌栄と呼ばれている。 

2 クレド・Credo・信仰宣言・使徒信条
信仰宣言【クレド】 

☩ ラテン語

信仰宣言・クレド・Credo 第1
Crédo in úum Déú. Patrem omnipoténtem. Factórem caéliet térrae, visibilium ómnium.
Et invisibilium. Et in únum Dónum Jésum Christum, Filium Déi unigénitum.
Et ex Pàtre nàtum ante ómnia saécula. Déum Déo, lumen de lúmine, Déum vérum de Déo véro. Génitum,non factum, consubstantiàlem Patri: per quem ómnia facta sunt. Qui propter nos hómines, et propter nósteam salútem descéndit de caelis.
Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine: Et hómo factus est.
Crucifixus étiam pro nóbis: sub Póntio Pilàto passus, et sepúltus est.
Et resuréxit tértia die sec úndum scriptúras. Et asc éndit in caelum:
sédet ad déxteram Patris. Et iterum ventúrus est cum glória, judicàre vivos et mórtuos: cújus régni non érit finis. Et in Spiritum Sanctum, Dómiunm, et vivificàntem: qui ex Patre Filióque procédit. Qui cum Patre et Filio simul adoràtur, et conglorificàtur: qui locútus est per prophétas.
Et únam, sanctam, cathólicam et apostólicam ecclésiam.
Confiteorúnum baptisma in remissiónem peccatórum. Et exspécto resurrectiónem.
Et vitam ventúri saéculi. Amen. 

【歌詞】
信仰宣言(クレド)
私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。私はその独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ,蔭府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座しておられます。かしこよりきたりて生きている者と死んだ者とを裁かれます。私は聖霊を信じます。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、体のよみがえり、とこしえの命を信じます。アーメン。
 

「おらしょ」の中のクレド
☩ オラショ・ケレド 
万事叶い天地を造り給うデウスパアテレを、又、其の御独子、我等がゼスキリスト、是れ、即ちスピリツサントの御奇特を以て宿され給いてビルゼンサンタマリアより生まれ給う。ポンショピラトが下に於いて河責を受けこらえクルスに掛けられ死し給いて、石の御棺に納められ給う。大地の底へ下り給い三日目によみがえり給う。天に昇り給い万事に叶い給う。デスパアテレの御右にそなわり給う。それより生死の人をただし給わんがため、天下り給うべし。スピリツサントカトウリカにてございます。サンタエキジリアを真に信じ奉る。サントス皆通用し給う事を罪のおん許しを、肉体よみがえるべきことを。終わりなき命を、真に信じ奉る。アーメン
*長崎・外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝わるオラショ(原文のとおり) 

☩ けれど・オラショ
真に信じ奉る万物かな給ひ天地を作玉ふでうすはあてれを〇又其御ひとり子我等が御主ぜずきりしとを〇是即すひりつさんとの御きどくを似てやどされ給ひてびるぜんまりあより生玉ふ○ほれ玉ふ○大地のそこへくだりたまひ三日目によみがへり玉ふ○天に上り給ひ万事に叶玉ふでうすはあてれ御右にそなはり玉ふ○其より生死の人をたゝしたまはん為にあまくだり玉ふべし○すひりつさんと かたうりか(に)て御(座ますさんたゑけれじやを真に信じ奉る〇さんとす皆通用し玉ふ事を〇科を御赦しを〇肉体よみがへるべき事を〇終りなき命を真に信じ奉る、あめん
*尾原 悟著『きりしたんのおらしょ』44頁、『おらしょ断簡』1590年版より キリシタン研究第42輯、教文館、2005年 

オラショ・クレド・手写し写本・外海民族資料館所蔵

クレドについて
信仰宣言とも使徒信条とも呼ばれる、キリスト教信者がキリストに対する自分の信仰を告白するときに唱える信条。 

カトリック教会のミサ典礼における、ミサ通常文の第3番目に唱えられる「信仰宣言・クレド」。「会衆が神の言葉に応えて信仰の規範を思い起こし、信仰を新たにするために,信条を唱えること」と規定されている。 

司祭が「われは信ず、唯一の神Credo in unum Deum」と唱えて歌い出し、信者達が「全能の神Patrem omnipotentem」と続く。 

前半部では創造主である父なる全能の神と、人間の姿で誕生して十字架の上で我らの罪をあがない給うたイエス・キリストへの信仰を、後半部では死に勝利したキリストの復活、父と子と三位一体の聖霊への信仰告白を荘厳な旋律に乗せて歌っていく。 

旋律は11世紀・1,000年頃に成立した。460年前の1560年代・豊後府内(大分市)で歌われていたグレゴリオ聖歌は紛れもなく現在も歌われている聖歌・クレド1番と同じものであり、クレドも11世紀に作られた「クレド1番」が歌われていた。 

クレド・信仰宣言の歴史的成立過程
信仰宣言とは、イエス・キリストの弟子たちの時代から使徒時代を経て、初代キリスト教会時代へと信仰の基本は色々な形でまとめられてきたが、洗礼の確立と共に信徒になる人の信条の告白も定式化されていった。洗礼を受けるに先立ち、洗礼志願者にキリスト者の秘儀が伝えられ、志願者は共同体(教会)の面前でそれを唱え返す式があった。更に洗礼そのものが『父と子と聖霊を信じます』と言う信仰表明の後に授けられた。 

215年、ローマの『ヒッポリュトスの使徒伝承』の時代には、この形式は確立されていた。325年、ニカイア(現・トルコのイズニクIznik )で開催された第1回公会議で信条が作成され、381年、コンスタンティノポリス(現・トルコのイスタンブール)で開催された公会議において『聖霊に関する補足』が補足付加されて『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』の式文が成立して、教会で唱えられ、ラテン語聖歌の旋律によって歌われてきた。 

東方教会では568年、皇帝ユスティニアヌス二世の命令で、『主の祈り』の前に『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を歌うことが義務付けられた。 

西方教会でもスペインとガリアで6世紀終わりころから、この信条を歌うように決められた。信条を歌う習慣は9世紀にアイルランドで広まり,福音書の朗読の後に歌うようになった。イングランドを経てドイツに入り、ヨーロッパ全域の教会において習慣化された。 

1014年、皇帝ハインリヒ二世が戴冠式のためにローマに行き、主日と大祝日にニカイア・コンスタンティノポリス信条を唱えることを西方教会に義務付け、以後西方教会全域において信条が正式に典礼に組込まれた。 

クレド旋律の音楽的成立過程
「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」による「クレド」を歌うラテン語聖歌には、中世に作成された写本の中には8種類の旋律が確認されている。

1974年に出版された現行のグレゴリオ聖歌集『グラドゥアーレ・ロマーヌムGraduale Romanum 』には11世紀から17世紀に作られた6種類の旋律がネウマ楽譜(4線譜)付で記載されている。 

クレド旋律の成立年代
1番11世紀。2番記載なし。3番17世紀。4番15世紀。5番17世紀。6番11世紀。 

教会旋法別の分類
6種類の旋律はそれぞれが教会旋法によって、固有の旋律を持っている。6種類の旋律を教会旋法ごとに分けると、3種類の教会旋法に分類できる。 

1 第4旋法ヒポフリギア旋法、第1番、第2番、第5番、第6番、
2 第5旋法リディア旋法、第3番、
3 第1旋法ドリア旋法、第4番、 

第4旋法のヒポフリギア旋法による4種類の旋律は基本的には極めて類似した旋律であり、類似した旋律の上にそれぞれが独自の装飾的な動きを旋律内に持っている。つまり11世紀に作られた第1番の旋律が基本の旋律であり、第2番、第5番、第6番の3種類の旋律は第1番旋律の変形であり、中世の時代に広範囲の地域において歌われていた第1番旋律が、時代的地域的変遷を経て伝承され変形して定着した相違によると考えられる。 

「クレド」の旋律の中で「Authenticus=正統的・基準的・本来的」とされてきたのが、第1番の第四旋法ヒポフリジア旋法による旋律である。年代的にも1番古く11世紀・1,000年頃に成立したと言われている。6種類の旋律はそれぞれが属する旋法に応じた動きや装飾的音符の長さの違い等があるが、言葉からくる制約や音楽的区切り方等から比較した場合、構造的には同一の形式に統一される。 

クレド 1番 原譜・四線譜・64頁
クレド 1番 原譜・四線譜・65頁
クレド1番・原譜・四線譜・66頁

*原譜・四線譜楽譜の出典『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版)Credo 1 64~66頁、第4旋法ヒポフリギア旋法、 

*カトリック聖歌伴奏譜 Credo 信仰宣言Ⅰ 266~269頁 光明社出版♭、F major、ヘ長調 四線譜楽譜と同じ調整 

*Accompagnement du Kyriale Vatican Desclée出版社 Credo 1 72~74頁 #、G major、ト長調 四線譜楽譜よりも1音高く移調されている 

第5旋法のリディア旋法による第3番は、第四旋法のヒポフリジア旋法の4曲とは旋法そのものが持っている旋法の性格が異なるために比べるとより明るく軽快な調性を持ちへ長調(F major )に近い調性に感じる。旋律は17世紀・1,600年代に成立した。

日本のキリシタン時代(1550~1650年)には、この3番のクレドは歌われていなかった。
*カトリック聖歌伴奏譜 Credo Ⅲ 信仰宣言 269~272頁 光明社出版 

第1旋法のドリア旋法による第4番は、荘厳で重厚な調性を持ちニ短調(d minor )に近い調性を持っている。旋律は15世紀に成立した。 

当時日本のキリシタンたちに歌われていた「クレド」は11世紀に作られた「クレド1番の旋律」だった。キリシタンたちは教会に集まって祈る際には、皆で歌としてのクレドを歌った。個人的に祈る際にはクレドは唱えるだけだった。 

カトリック聖歌伴奏集、クレド1番266~269頁に掲載されている。
クレド1番は11世紀。1,000年頃に成立した。日本でのキリシタン時代に信徒が歌っていたのはクレド1番の旋律だった。
カトリック聖歌伴奏集、クレド3番269~272頁は17世紀、1650年中期頃に採用された聖歌でキリシタン時代(1550~1640年頃まで)の日本では歌われていない。 

*グレゴリオ聖歌(原譜・四線譜) 
楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) Credo 1番 ・64~66頁 Desclee&Socii
この四線譜原譜には64~78頁に、6種類のクレド(信仰宣言)が掲載されている。 

3 アヴェ・マリア・Ave Maria 

☩ ラテン語・アヴェ・マリア・Ave Maria
Ave Maria, gràtia plena; Dóminus tecum; benedicta tu in muliéribus,
Et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatóribus,
Nunc et in hora mortis nostae. Amen. 

歌詞
めでたし、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共にまします。
あなたは女に中で祝せられ,また、ご胎内の御子も祝せられます。
神の御母聖マリア、祈りたまえ、罪びとなる我らのために、
今も臨終の時にも、アーメン

オラショ・ガラサ(アヴェ・マリア・天使祝詞)
ガラサみちみち給うマリアに御礼をなし奉る。御主は御身と共に在す。女人の中においてはきて御果報いみじきなり。又、御胎内の御身にて在す。ゼウスは尊くまします。デウスは御母サンタマリア、今も我等が最後にも、我等悪人のため頼み給え。アーメン
 
ガラサ(アヴェ・マリア)ラテン語のカタカナ表記
アヴェ・マリア、ガラサベーナ。ドメレコ。ベラットツウヨーイイモノイレクツイクレナレ。
ツルレツレケレツゼズサンタマリア。ビルゴモッテテンテンホーラツランノゲンノトイヤノナンキイナンツ。アメンゼズス。
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ・アヴェ・マリア(原文のとおり)

 キリシタンたちが自分の信仰の告白として『アヴェ・マリア』を歌った殉教の記録。 

フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が日本に来た1549年以来、1560年代に豊後(大分)で制定されたと最初期と同じ形式の祈祷文として唱えられていたことがイエズス会の記録から判る。 

*1561年(永禄4)10月8日付け、ジョアン・フェルナンデス・João Fernàndez de Oviedo(1525~1567年)修道士書簡。
『彼らに(教える際に)取る順番は以下のようである。すなわちパーテル・ノステル(主の祈り)、アヴェ・マリア、クレド、サルヴェ・レジーナをラテン語で、またデウスの十戒と教会の掟,大罪とこれに対する徳、並びに慈悲の所作を彼らの言語で唱えるに止める。』 

『当時、我らの同僚たちの司祭館では、キリシタンたちに信心を教え、彼らがデウスのことを喜ぶように導くために、一日の七度の聖務日課の時間に合わせて、七回、ちいさな鈴を鳴らす習わしであった。それを聞くと、司祭館にいる全員は聖堂に参集し、一人の少年が大声で主の御苦難の物語の一ヵ所を朗読する。そしておのおのは、その御受難を追想しながら、当地方のために「パーテル・ノステル」を五回、「アヴェ・マリア」を五回唱えて祈った。そしてこれは多年にわたってキリシタンの間に広まり、いろいろの地方で彼らは自分たちの家で同様のことを行った。』173~174頁 
*コスメ・デ・トーレス神父が修道士たちと共に豊後府内の司祭館で行った修行について
ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第6巻 大友宗麟編I 第17章(第I部19章) 

『当修道院に居住する日本人の同宿たちは、昼間は来訪者たちに「日本語とその文字で書かれた本」によってドチリナ(教理)を教え、夜、アヴェ・マリアの時刻に、つづいて、パードレ(神父たち)と共に、我ら一同はパーテル・ノステル、アヴェ・マリア、クレド(使徒信教)サルヴェ・レジーナの祈祷(オラショ)を行い、また、航海者、特に日本に来る司祭と修道士のため、パーテル・ノステルを一度唱えたのち、ラダイニャス(聖母連禱)をともに唱えていた。』
*1555年(弘治元)9月20日付け 豊後(大分)発 
ドゥアルテ・ダ・シルヴァ修道士書簡  
『16・17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第Ⅰ巻214頁 

『かつまた教会の国と当地方の発展のため、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを三度唱える』『我らが死者とともに修道院を出る前に、私は留まって少し祈り,三度パーテル・ノステルを称えると、キリシタンも唱和し、墓所においても死者を葬る前に同じことをなす。』
*1555年(弘治元)9月23日付け 豊後(大分)発 
バルタザール・ガーゴ神父書簡
『16・17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第Ⅰ巻182~183頁 

日本のキリシタン時代の教理門答書『どちりいなきりしたん』(1600年)のなかに、現在の形とほとんど同じ形で書かれている。1560年代に制定された最初期の祈祷文・オラショの形が、日本各地のキリシタンによって、現代まで450年間の長きに渡り、忠実に形も変えずに伝承されていることは驚異的な事である。 

オラショ・アヴェ・マリア・手写し写本・外海町民族資料館所蔵
オラショ・アヴェ・マリア・手写し写本・外海民族資料館所蔵

アヴェ・マリアについて
聖母マリアへの祈り。3節により構成されている。
1、天使ガブリエルがマリアへの受胎告知をした際の祝詞(ルカ1:28)
2、マリアを迎えたエリザベツの祝詞(ルカ1:42)
3, 聖母マリアへ執り成しの願い(現在の祈りは6世紀から15世紀にかけて形成された) 

祈りの前半(上記1,2)の原型は6世紀の東方教会の典礼書に見られ、西方教会では7世紀のローマ典礼書に待降節主日の奉献唱として記載されている。15世紀以降、後半3の聖母マリアへの執り成しの祈りが付け加えられた。 

有名な『アヴェ・マリア』の旋律は1,000年初頭の写本(ハルトカ―390~391, f, 38 )にネウマ符で記されている古い旋律である。旋律の始めの箇所に非常に印象的な5度の跳躍があり、第1教会旋法ドリア旋法がもつ荘厳性、深い崇敬性、奥床しい色調が特徴的に旋律に表われている。後半の聖母マリアに神へのとりなしを願う言葉と旋律は1,000年頃に加えられた箇所で、言葉に合わせて旋律も嘆願調になっている。

交唱『アヴェ・マリア』は聖母の祝祭日の聖務日課の他、お告げの祈りとして、また、様々な機会に非常に多く歌われている。

アヴェ・マリア・原譜・四線譜・

 *原譜・四線譜の出典『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 1861頁、聖母讃歌(Honorem B Mariae V )マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )教会第1旋法ドリア旋法による。

アヴェ・マリア・伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性
原譜・四線譜と同じ調性・カトリック聖歌集・282~283頁


4 サルヴェ・レジナ

 
サルヴェ・レジナ・Salve regina
Salve Regina, Mater misericordiae; vita,dulcédo et spes nostra salve.
Ad te clamàmus éxsules filii Hevae.
Ad te suspiràmus gemétes et flentes in hac lacrimàrum valle.
Eja ergo, adovocàta nostra, illos tuos misericórdes óculos ad nos convérte.
Et Jesum, benedictum fructum ventris tui,
Nobis post hoc exilium ostende.
O Clemens, O pia, O dulcis, Virgo Maria.

オラショ・サルヴェ・レイジの祈り
憐れみの御母后妃にて在す。御身に御礼をなし奉る。我等が一命かんみ頼みかけ奉る。流人となるエハ(エバ)の子供、御身にさけびをなし奉る。この涙の谷にてうめき泣きて、御身に願いをかけ奉る。これによって我等が御とりなしで憐れみの御眠を我等に見むかせ給え。
又、この流浪のあとは御体内の尊き身にて在す。ゼズスを我等に見せ給え。深き御柔軟、深き御哀隣すぐれて甘くございます。ビルゼンマリアかな。尊きデウス御母キリストの御約束を受け奉る身となるために、頼み給え。いかにガラサと御憐れみの御母サンタマリア、御身我が敵を防ぎ給い最後に(・・・)さんを受け取り給え。アーメン
*長崎外海・黒崎地区カクレキリシタン帳方・村上茂則氏に伝承されているオラショ
 
【歌詞】
めでたし元后 憐みの母、我らの命、喜び、希望。旅路からあなたに叫ぶエヴァの子よ、嘆きながら、泣きながらも 涙の谷にあなたを慕う。いざ、我らのためにとりなす方。
憐みの目を我らに注ぎ、尊いあなたの子、イエスを旅路の果てに示してください。おお、いつくしみ深く、恵みあふれる乙女、マリア。

三位一体主日後(その前夜土曜日)から待降節第一主日の直前の金曜日夜までの期間の終課(就寝前の祈り)の最後に歌われるマリア交唱歌。
ベネディクト会が定めた聖務日課の最後の祈り(就寝前の祈り)、終課の最後で歌われる聖母マリアを称える歌、ラテン語の表題は『聖母マリアへの結びの交唱』。
 
この名曲はグレゴリオ聖歌の中で最も美しい旋律を持つ有名なマリア交唱歌。最も古い聖母讃歌のひとつで、天の元后(女王)、神の母、取次者である聖母マリアを称え祈る讃歌。
 
最古の史料は1000年頃のもので、歌詞、旋律共にフランスのル・ピュイの司教・アデマール作と言われている。このSalve Reginaが典礼において用いられるようになったのは1135年、クリュニー修道院に於いてペトルス・ヴェネラピリスが定めた行列聖歌であった。1218年以降、シトー会がこの曲を毎日の行列聖歌と定め、1230年からはドミニコ会でも毎日の終課の後で歌うことを定めた。またこの曲は『神のお告げの祝日』のマグニフィカト(マリアの賛歌・ルカによる福音書第1章46節~55節)のアンティフォナAntiphonとして用いられていた。13世紀にシトー会、ドミニコ会等の修道会がそれぞれに日々の祈りの中に取り入れるようになり、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)がこの曲を毎金曜日の終課の後に唱えるように定めた。1300年以降は、すべての終課の後に唱えられるようになった。修道士たちは全員聖堂に集まり、一日を神の御恵みのうちに過ごすことができた感謝と共に、この日の最後の聖歌を聖母マリアへの誉れのために捧げる。

オラショ・サルヴェ・レジナ・外海民族資料館所蔵
サルヴェ・レジナ・原譜・四線譜

*原譜・四線譜の出典『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版) 279頁、マリア交唱歌(Antiphonae B. Mariae Virginis )単純調(tonus simplex )
原調は第5旋法リディア旋法による。

サルヴェ・レジナ・伴奏譜・原譜・四線譜より1音高い調性
伴奏譜・原譜・四線譜と同じ調性・カトリック聖歌集284~285頁・光明社出版


箏曲の中に生きている六つの聖母マリア讃歌の伴奏譜

ロレンソ了斎が創作した「六つの聖母マリアの讃歌」のための伴奏譜
1550年頃、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)から見出され山口に於いて洗礼を受け修道士となりグレゴリオ聖歌を習った平戸の盲目の琵琶法師・ロレンソ了斎が自分の得意とした琵琶で独自に伴奏を付け、1557年(弘治3)豊後府内で出会った筝曲の祖・諸田賢順にその伴奏譜を伝えた。
 
ロレンソ了斎が付けたグレゴリオ聖歌の伴奏は、日本に初めて入ってきた西洋音楽(グレゴリオ聖歌・八つの教会旋法)と、日本独自の固有の音楽・音階(*五音階旋法)とが、出会い、融合した初めての独自の独創的伴奏音楽だった。ロレンソ了斎は、グレゴリオ聖歌の旋律に、彼が持っている独自の日本の五音階旋法で伴奏を創作して、初めて西洋音楽と日本音楽が融合した作品を作り出している。
 
*五音階旋法 
日本独自の五つの音で音階が構成されている。俗に「ヨナ抜き旋法」とも言われている。第四番目のファ(F)と第七番目のシ(B)の音が、西洋音楽のドレミファソラシの七音から構成されている音階の第四番目、第七番目の音が抜けているため「四、七抜き旋法」と日本独自の五音階旋法の事を呼んでいる。
 
ロレンソ自身が得意とする琵琶でミサ曲の伴奏をするときだけという、教会の中では非常に限定された制約の中での機会しか与えられなかったが、山口と豊後府内に於いて,当時、日本の教会の指導と全責任者であったトーレス(Cosme de Torres)神父は、ロレンソ了斎の音楽的才能を認め容認して、ロレンソ了斎を教会の中での宣教の担い手として見出し用いた。トーレス神父の宣教を担う人材を適材適所に用いる優れた才能により、ロレンソ了斎の非凡な音楽的才能は見事に開花した。また当時の名説教家、仏教宗派との論争の卓越した理論家、宣教師たちの通訳家として、イエズス会の記録には、ロレンソ了斎の活躍が紹介されている。

琉球筝曲
瀧落菅撹・一段   アヴェ・マリア
地菅撹・二段    サルヴェ・レジナ・めでたし元后
江戸菅撹・三段   アルマ・レデムプトリス・麗し救い主の御母・
拍子菅撹・四段   レジナ・チェリ・天の元后
佐武也菅撹・五段  サルヴェ・マーテル・めでたし憐れみ深い御母
六段菅撹      クレド(原曲と推定される・陽旋法)
七段菅撹      キリエ・ミサ通常文第一・聖母マリアの祝祭日より・
 
本土箏曲
七段        アヴェ・レジナ・めでたし天の元后・
 
その後、1557年(弘治3)、ロレンソ了斎は、豊後府内で出会った筝曲の祖・諸田賢順にその伴奏を伝えた。諸田賢順よって編集・編纂されたミサ曲の伴奏譜が、筝曲の段物として厳しい禁教時代をかいくぐり抜け、筝曲の段物として460年間、筝曲の世界に伝承された。その中にはクレドの伴奏譜が筝曲六段へと姿を変えていた。六曲のアヴェ・マリア讃歌の総ては琉球筝曲と筝曲七段に編曲されている。
 
1592年(文禄元)2月3日、長崎のトードス・オス・サントスの修道院(現春徳寺・長崎市夫婦川町)でのロレンソ了斎の死去と共に、彼が創作した琵琶の伴奏譜は、教会の中では、いつしか忘れ去られていった。

ロレンソ了斎が死去した長崎のコレジオ跡地・現春徳寺・長崎市夫婦川町

約400年後の1990年頃、この事実『筝曲の段物・六段がグレゴリオ聖歌のクレドの伴奏譜である』との神からの啓示として与えられたのが当時福岡県大牟田市在住の筝曲家の坪井光枝氏であり、坪井氏の研究によりこの事実が音楽的に証明と確認がなされ公にされた。坪井光枝氏の2012年2月の死去により、現在研究は私が受け継いでいる。
 
琉球筝曲の七段は総てグレゴリオ聖歌の伴奏譜だったことが楽譜から証明され解明されている。

キリシタンたちが自分の信仰の告白として歌った二つの聖歌の殉教の記録。
5 主を褒め称えよ(Laudate Dominum)詩編117編
6 預言者シメオンの讃歌(Nunc dimittis servum tuum Domine)
ルカによる福音書2章28~32節 

5 キリシタンたちが自分の信仰の告白として『主を褒めまつれ』を歌った殉教の記録。

*1619年(元和5)11月18日 長崎西坂の丘に於いて

 レオナルド木村修士、村山東庵、吉田秋雲、コスメ武谷(竹屋)、ポルトガル人、ドミニコ・ジョルジョ。計5名。
『レオナルド木村は、未だ自分の運命を知らずにいた。然し、第5番目の斬首場の用意が整って、順々に下の方へ四つ並んだ。時にレオナルドは身の仕合わせに身震いしつつ首斬道具に目をとめた。事実、前日から役人は、レオナルドを大村の牢舎(鈴田牢舎)から引き出し、前日の被告と共に呼び出した。尊敬すべき修士は、恍惚として音吐朗々と『諸人こぞりて・主を讃え奉れ』(Laudate Dominum omnes gentes)(詩編117編)、聖シメオンの讃歌(Nunc dimittis servum tuum Domine)(ルカによる福音書2章28~32節)とを歌い、十字架の前にひれ伏して聖なる主を拝した。」
*レオン・パジェス著『日本宗門史・中巻』110頁

6 キリシタンたちが自分の信仰の告白として『シメオンの讃歌』を歌った殉教の記録。

『処刑の時、木村はイエズス会の修道服を着て、頭にはイエズス会の帽子を被った。ジョルジョは俗服を脱いで、サン・ドミンゴの第三会の会服を着た。他の三人も晴れ着を着た。

皆、両肩の後ろ、頭を超すようにして巾三指ほどの紙を竹に挟んで罪状を記したものを結付けられた。殉教の場所は、やや海岸寄りの1597年の殉教(26聖人の刑地)で有名な場所であった。 

大勢の人々が、往還や山や港から出て来て、洪水の如く溢れていた。大勢一塊になっていたポルトガル商人が、同法ジョルジョの上に涙を灌げば、寧(むし)ろ、ジョルジョは「この大きな幸福を祝ってくだされ」と請うた、レオナルド木村は、管区長の命により、歩きながら説教した。何時もながら雄弁の彼の声は、殉教の荘厳さによって、一層人も迫るものがあった。

 第1列は修士木村で、次がジョルジョ、徳庵、ショウウン(秋雲)、タケヤ(武谷、竹谷)の順であった。

彼らは、苦しみを受けながら、騒がず従容として死につき、永遠の勝利を得た。ジョルジョは確りとした高い声で、使徒信教(クレド)を唱え「人体を受け」(Incarnatus est)という文句を口にするや息を引き取った。

レオナルドは焔が綱を焼き切った刹那、地面まで屈み、薪を恭々しくかき集めて、之を天の紅玉ででもあるかのように頭に乗せて、聖歌「主を讃え奉る」(Laudate Dominum omnes gentes)(詩編117編)を歌った。時々、居並ぶキリシタンの発した叫び声は、イエズスとマリアの聖名を天までも送り、小舟の上に陣取っていた会の子供たちは、二つの聖歌隊に分かれて、楽器の音に合わせて教会の聖歌を歌った。 

 犠牲が終わると、骨は灰と共に沖に投廃された。然しキリシタンたちは、その幾分かを取り出すことができ、それを鄭重に保存した。』
*日本切支丹宗門史 中巻 111~112頁 レオン・パジェス著

1622年(元和8)9月10日・長崎西坂の丘に於いての大殉教

 殉教とは、その信仰の真実をあかしし、キリストへの愛を示すため、自由に捧げる命の犠牲である。殉教の示すことは、キリストへの愛の告白であり、キリシタンとしての生き方の証である。

 長崎西坂の丘に於いて、55名が火刑に処せられ、他の者は斬首された。殉教者の一人・カルロ・スピノラ(Carlos Spinola)神父は「私たちのうちの誰かが弱さの印を示すのを見ても驚かないように。私たちは青銅やその他の硬い金属でできているのではなく、弱い感じやすい肉によってできている人間なのです」と言い、火炙りの苦しみを受ける苦痛を訴えたが、指導者として、同じ火炙りの刑を受けている信者を励ましながら共に殉教した。

『朝の9時頃、殉教者の行列が町から降りてくるのが見られた。天まで響く大きな騒ぎだった。男女の子供たちは「わが魂は、主を崇める・Magnificat」(ルカ1章46~55節)「主を讃え奉れ、アーメン・Laudate,pueri」(詩編112編)「諸人来たりて主を讃え奉れ・Laudate Domium,omnes gentes」(詩編117編)、並びに連騰を唱えた。それは救世主の光栄あるエルサレム入城の際、エルサレムの子供たちの歌を偲ばせる、えもいわれぬ歌であり、これが殉教の最後まで止まらなかった。』
*日本切支丹宗門史 中巻 221~242頁 レオン・パジェス著

カミロ・コンスタンチオ(Camillo di Costnzo)神父の殉教
1622年(元和8)9月15日 平戸の海向かい田平

『随分前から、3人の他の囚徒と共に、平戸の牢舎に移されていたコンスタンチオ師は、そこで長崎奉行の判決を待っていた。皇帝(将軍)から直接命令が出て、3人を長崎で斬首した。師は、平戸で火炙りとのことであった。然るに、3人は既に殉教した後であった。そこで9月15日,師は平戸に連れて行かれた。

この囚徒たる修道者は、特別の重罪人として、1番最後にヨーロッパから来た人々に先だたせようとして、非常に長い間、牢に入れておかれたのであった。

コンスタンチオ師の処刑は、誠に厳粛なものであった。当時、長崎の港には、英,蘭13隻の船が停泊していたが、その外国人に、この処刑の光景を見物させようという希望があった位であった。故に、大群衆の中の、世界の果てから来た多数のヨーロッパの異端者は、その祖先が棄てたカトリックの信仰の勝利を見んと集まっていた。

指定された場所は、町と城とを隔てている入江に臨み、平戸と向かい合った*田平であった。これは遮るもののない、どこからでも見られる場所であった。矢来は、海岸から100歩のところにしつらへられ、コンスタンチオ師は、素早くこの狭い隙を越え、次いで奉行に奥床しく一礼し、進み出て処刑者に身を託した。彼は葦(竹で編んだ綱)でゆるく縛られた。

師は、容貌美しく,甚だ(はなはだ)丈の高い人であった。謹厳な態度で,誰もが尊敬の念を似て,師を見守っていた。彼は、柱の上から次々と、日本語、ポルトガル語、フランドル語の3ヶ国語で群衆に向かって説教した。役人たちは点火する前、暫し(しばし)彼が語るままに任せておいた。

神父は、聖書の文句を引用して『身体を殺すものを恐れるなかれ。』(ルカによる福音書12章4節)といった。そして、この崇高な説教座から出た光輝ある雄弁は、魂の底まで沁み透るのであった。この殉教者は、己が火炙りと血の流出とをイエズス・キリストに於ける信仰の明白な證據(証・拠り所)として、人目を惹いた。実は、このことは長年、彼が日本で説教してきたものであった。

彼は、身の周りに,焔がぱちぱち音立てて燃え上がった時、じっと動かず、しかも至って朗らかであり、最後まで崇高な*説教を止めなかった。次いで、彼は渦巻く煙の中、いな焔の真只中で、最後まで,総ての殉教者たちのこの栄ある歌『諸人挙りて主を讃めまつれ・Laudate Dominum omnes gentes 』(詩編117編)を終わりまで歌い、そして5度『聖なるかな・Sanctus 』を唱え、彼は既にセラフィム(最高の天使たち)たちの中にあるかの如くに、主に霊魂を返し、永遠の聖歌を続けようとしていた。

彼の修道服は、燃えつくして、彼の体が白く見え、次いで黒く見えた。彼の遺骸は、海中に投棄されキリシタンたちは、まったくどうすることも出来なかった。コンスタンチオ師は50歳を少し出たばかりで、イエズス会にあること30年、4誓願の請願者であった。異教徒たちは、皆深く狼狽し、無我夢中で帰って行った。彼は『おお、私は何と幸せであろう』と何回も繰り返すのが聞きとられた。
*レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史・中巻』245~247頁、第7章、1622年

「その殉教は9月15日にあって、その話を殉教に与った平戸の信者が書いた。牢屋の他の4人の仲間が既にいろいろの場所や戦いで勝利を得ていたので、その島に1人になった彼を捜しに行った。カミロ神父は勇敢な人で、経験豊富な指導者として1人でイエズス会に名誉を与え、火に打ち勝つためには1人で十分であった。

彼が乗っていた船が平戸の殉教に定められた場所の前に碇を下した。小さな船で殿の6人の家来が迎えに出た。船の船室からイエズス会の帽子と服を身に着けて出てきて、そこまで伴ってきた人と望まれた死に向かって行くために、捜しに来た人々に感謝した。その殉教に立ち会うために平戸に行った長崎の奉行権六の家来を待っていた。将軍は、長崎の殉教者だけでなく周辺の地方の殉教者たちも権六に一任した。その理由で長崎の郊外で行われたそのような死刑に、たいてい自分の代理としてその殉教の采配を振る家来を送っていた。カミロ神父はその人々を見て、権六殿の家来であるかどうかと尋ねた。彼は笑みを浮かべながら非常に良い顔をしていたので、皆は驚いていた。彼らがそうであると答えたので神父は一礼して、自分のために遠方からわざわざ来たことに感謝した。そのとき平戸の殿の家来が殉教者に、何処の国から来たのかの問いには、イタリアからだと答え、いつ日本に来たのかには、17年前に来てそのうちの1部を堺で過ごしたと言った。年齢を問われたが、それを知る必要はないが、もし知りたければ50歳だと答えた。尋問者はすべてを記録し、その後平戸の奉行たちに見せに行った。

殉教の場所が町の外の海に近い長崎側の海岸で、その場所はいろいろの方向から眺められる。町では珍しさにその光景を見に行った人が多かった。ある者は海から。屋の者は陸から、港にいたオランダ人たちもこの徳高いヨーロッパ人がこの世の果てにどんな死に方をするかを見届けに行った。場所は既に準備されていて、彼と処刑場の周囲には柵ができていて、その真ん中に木柱が立っていて、その周りに沢山の薪が積まれていた。この点でこの殉教は長崎の殉教とは違っていた。小さな船で迎えに行った人々は彼の外套をはがしてそのまま大きな喜びを持って下船し、浜から殉教地までの距離は日本の1丁位で、大急ぎで歩いていったので、それを見た信者たちは、このパライソへの道のようには普通はそんなに急いで歩けなかったと言っていた。

殉教地の柵の中に入った時、声高らかに自分はイエズス会員で、名前はカミロ・コンスタンソ、イタリア出身だと言った。もし群衆の中にキリスト信者がいるならその事を知っておくように。竹で編まれた縄で柱に縛り付けられた。自分がこれほど望んでいた場所にいて、古くからの望みが全うされると分かって、群衆が1番集まっている方に向き直った。縛り付けられた時に顔が人のいない方に向いていたからである。そのようにしたのは、皆が自分の最後の説教を聴くのを望んでいるからであった。

最初の言葉は、何故、死んでいくか、であった。それは、我が主と救い主の教えのためである。あの高い説教台から声高にその話題を述べ、言葉と話題がその日の機会と時に適ったものであった。『身体だけを殺す人を恐れないでください。』日本語でその言葉を説明して、身体は遅かれ早かれ最後には灰になるので私の身体について何をやってもよろしい。しかし永遠に生きる私の魂に対して何もできない。

我らの神父を縛り付けた人々は薪がもっと早く燃えるように火をつけて柵から出た。中には天使たちが伴ってキリストの兵士が残り、もう1度大声で皆が聞くように、救いのためには唯一つの道しかない。それは自分がその教えのために焼かれながら死んでいくその教えである。他の教えはごまかしであり、作り話である。と言った後の火は強く燃え上がり煙で何も見えなかったが、その炎の中から日本語で熱烈に説教した。彼の姿が再び見えた時は祈っているような姿であって、もう1度声をあげて『すべての民よ,神を褒め称えよ・Laudate Dominum omnes gentes 』(詩編117編)を歌い、栄唱まで続き『世々に至るまで』という言葉で皆は彼の命が終わって永遠の命が始まったと思っていたが、そんなに早く我らの殉教者の命は終わらなかった。

もう1度ラテン語と日本語で説教し、火力と煙が強かったのか、望まれた瞬間がやって来たのか、あるいは神がその時に慰めを与えていたのか,良く分からないが、1番火力が強いその火を気にしないで、日本語でこの地方の人があることで非常に満足する時に言う言葉『おお、私は何と幸せであろう』と3回も繰り返すのが聞きとられた。

炎がいっそう燃え上がり、遠くから見ていた人々にも恐れさせた。至福なる神父の服がもう上がり、初めは雪のように白く見え、後で黒くなった。人々はこのとき殉教者の魂が身体を離れてパライソの幸せに入ったと思ったが、そうではなかった。最後のすべてのまとめのように遠くにも聞こえるように全力を振り絞って声をあげ『聖なるかな・Sanctus ! 』を5回唱えて、この聖なる言葉をもってキリストの勝れた殉教者カミロ・コンスタンソ神父の命は終りパライソに行った。

その記憶はあの町では長く留まり続けるだろう。そこではそれは日常の話題になっている。このように信者、異端者と未信者の前でイエズス会に名誉を与えた。この勝れた殉教者の遺骸を未信者はそれに相応しい方法では葬らず海に沈めた。この様に私たちから遺事を奪い、信者がその形見を手に入れることができず、非常に悲しんだ。」
*『長崎の元和大殉教・ベント・フェルナンデス神父による記録』第7章、90~103頁、結城了悟著 日本26聖人記念館・発行、2007年

5 主を褒め称えよ(Laudate Dominum)詩編117編

「らおだて」
ラテン語の詩編117編「ラウダテ・ドミヌム・オムネス・ジェンテス」

☩ ラテン語・らおだて
Laudate Dominum omnes gentes, laudate eum omnespopuli.
Quoniam confirmata est super nos misericordia ejus, et veritas
Domini manet in aeternum. Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto.
Sicut erat in principio et nunc et semper: et in saecula saeculorum, Amen. 

【歌詞】詩編117編
もろもろの国よ、主をほめたたえよ、もろもろの民よ、主をたたえまつれ。我らに賜るその慈しみは大きいからである。
主の誠はとこしえにたえることがない。主をほめたたえよ。
栄光が御父と御子、聖霊にありますように。はじめにそうであったように、今も、いつも、世々に至るまで。アーメン

Laudate Dominum Omnes Gentes「もろもろの国よ、主を讃美せよ」に栄唱が付されて歌われる。「ラウダテ・ドミヌム」は第3旋法(フリジア旋法)に属している。

ラウダテ・ドミヌ・原譜・四線譜
らおだて・日本語訳
らおだて・伴奏譜・作譜・花岡聖子・1頁目
らおだて・伴奏譜・作譜・花岡聖子・2頁目

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版)167頁 Tonus 1 第Ⅰ(ドリア)旋法 

詩編唱(Psalmorum)定式という、詩編を歌うときに付けられる独特の旋法の歌い方に属し、古くはユダヤ教の時代からの旋律形式に由来している。 

詩編の各節は、詩編の持つ構造に対応して対を成すように、前半句と後半句がひと続きで歌われる。独特の発唱句で前半句を歌いだし、同音の朗誦音の上で祈る様に続けて唱え、中間句でいったん止り、その後、後半句を同音の朗誦音の上で唱えてから、終止句へと下降して歌い終わる形式の事を言う。


6 預言者シメオンの讃歌(Nunc dimittis servum tuum Domine)
ルカによる福音書2章28~32節

「シメオンの讃歌」と称される讃歌。Canticum Simeonis.
ルカによる福音書2章29~32節に記されている預言者シメオンの讃歌。
カクレキリシタンの間では「なじょう」という名称で唱えられている。

☩ ラテン語・なじょう・シメオンの讃歌
Nunc dimittis servum tuum,Domine, secundum verbum tuum in pace:
Quia viderunt oculi mei salutare tuum: quod parasti ante faciem omnium populorum: Lumen ad revelationem gentium et gloriam plebis tuae Israel.

Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto. Sicut erat in principio et nunc, et semper, Et insaecula saeculorum, Amen.

【歌詞】
主よ、今こそ、あなたは御言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いを見たのですから。
この救いはあなたが万民のまえに御備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光、み民イスラエルの栄光であります。

「ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis」は第3旋法(フリジア)に属している。

なじょう・原譜・四線譜
なじょう・日本語訳
なじょう・伴奏譜・作譜・花岡聖子・1頁目
なじょう・伴奏譜・作譜・花岡聖子・2頁目

使用した楽譜の出典は『グラドゥアーレ・トリプレクス・Graduale Triplex 』(1979年ソレム修道院出版)271頁 Canticum Simeonis.  第3(フリジア)旋法

「ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis 今こそ御言葉に従い、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たのですから」Nunc Dimittis シメオンの讃歌。ルカによる福音書2章29~32節

エルサレムの神殿でイエスに会った預言者シメオンの讃歌に、結びに栄唱が付けて歌われる。

生月島で伝承されている「ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis」の旋律は、グレゴリオ聖歌のシメオンの讃歌の原旋律とは多少異なっているが、時代を経ているうちに徐々に変化したものと考えられる。しかし生月島で聖歌が書き写した歌詞だけで、旋律の楽譜が伝えられていないことを考えると、伝承、それも暗記による口伝だけで、旋律が400年の時を超えて忠実に伝承されていることに心からの敬意と尊敬を抱くとともに大変驚いている。

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