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neutral014 ユーラシアの端と端



 昭和20年の玉音放送の放心状態、ニュートラルから日本人は立ち直ったかに見える。が、今もそのニュートラルを基盤にまともな社会が築けること自体に疑問を持たれたとしても不思議ではない。少なくとも「同一性」若しくは同等なものが何処かに存在しなければ日本という国は成立しないのではないか?
 日本人はニュートラルという海で溺れてしまうのではないのか?
 
 L'autre face de la lune. Écrits sur le Japon (Paris, Seuil, 2011)↑フランスでの原典
『月の裏側 日本文化への視角』(レヴィ・ストロース 川田順造訳、中央公論新社、2014年)
 文化人類学の巨匠レヴィ・ストロースは大の親日家としても知られ、フランスと日本がユーラシア大陸の端っこにあり、東西反対方向に鎮座していること、真逆の文化・文明であることにヒントを得、日本語を習わなかった故にやや回り道や誤解も見られるのであるが、豊富な経験と鋭敏な思索を駆使し、出版にまで漕ぎ付いた。日本を、日本人を解明しようという志のある日本人にとっては珠玉の出版ということになろう。
 自己の在り方を西洋人は私の中心から発して説明するのだが、従って主語が必須で重要なのだが、日本人は周りから辿り、最後に中心に到達するような自己であると概略を描いた。
 ドゥルーズ=ガタリは「残りものの自己」という表現でモノの生産過程(多様体の生産)での自己の在り方を特定したのであるが、そのまま日本人の通常の自己の在り方でもあった。
 端折って云えば、脇役である日本人の主役の「同一性」、つまり天皇が「自己同一性」として脇役(国民)の外部に君臨している構造が日本全体の「自己同一性」であり、国全体を一個の強固なものにしてきたと考えられる。国体とはよく言ったものである。勿論国民体育大会の略語ではない。「万世一系」(ばんせい いっけい)が日本国の「自己同一性」の基盤になっていたのだ。
 「自己同一性」が外部に確固として立脚しているからこそ「誰でもない自分」ニュートラルに遊ぶことが可能だったのだ。
 ニュートラルは日本人に突如現れたものではなく、確固とした構造があったことになる。そこまで遡ると天皇を個々人の自己の在り方に結び付けずに、ニュートラルの実態を取り上げ、とかいう話は砂上の空論に過ぎないことになる。
 天皇を頂点とする日本全体を包み込む「自己同一性」は巨大過ぎて目には見えない。無意識の底に辛うじて映るのだと言っても良い。スキャンダル塗れで権威の減少が止まらないイギリス王室でも無理であろうし、アラブの王族でも個々人の基盤を部族社会に置いていては上手く機能しないだろう。日本人の天皇陛下に対する思いは、親の天皇陛下に対する態度で大方決まってしまうのではないかと思われる。代々の家風というものがまだ辛うじて残っていたとして、、、。
 レヴィ・ストロースの東西の人間のでき方の違いを解く方法はそのまま此処にも当て嵌められるのだろうか。勿論天皇を頂点にした巨大な「自己同一性」はレヴィ・ストロースの著作には書かれていない。西洋の「自己同一性」アイデンティティは個人にあり、日本は外部にある。それもピラミッドより遥かに巨大化したものだ。日本が神話の国と発言して叩かれた総理大臣がいたが、日本の「自己同一性」は神話を彷彿とさせるように壮大だ。島国根性とは真逆の開放感さえ感じられる。奈良・鎌倉の大仏や、巨大観音像を作った情熱、スカイツリーを建ち上げたパッション。富士山は日本最高峰にして最も美しい唯一無二の山だ。この奇跡も偶然ではなく、日本のそのような精神構造から来ているのかもしれない。
(続く)
 2024/04/05


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