自分史的なクリッピング史料

GW明けは雨のスタート。予報などで皆知っていただろうから、取り立てて憂うつな気分も気持ち的には回避されているのだろうか。内閣支持率が外交効果で若干上がっている様子で、とりあえずは対処療法的な一時的なものという評価が専ら。政治家は外交というカードを切りながら、最悪の事態からの浮上を狙うことが多いというのも周知の事実。鎖国的文化を近代から受け継いでいて、本当に外交というのが効果的になされているのだろうか?米国追随的な外交以外にハッキリと独自の路線を示せているのだろうか。

2023年2月5日 朝日 日曜に想う 鎌倉幕府における外交の不在

鎌倉には大小無数の寺社があって、それぞれに歴史が刻まれている。冒頭は藤沢市常立寺には小さな供養塔があり、モンゴル出身の力士たちが時折訪れるというという紹介で始まる。この寺には、モンゴル帝国、元からやってきた外交使節が斬首の憂き目にあってこの寺で供養されているという。

元寇、蒙古襲来とも言われる戦争が鎌倉時代に2度起きたということは歴史の教科書での記憶もある。1274年、博多湾に上陸した元軍を何とか追い返し、翌年元からの使節5人が山口県下関市に到着。幕府は彼らとの協議ではなく、斬首を選んだ。自国の事情を詳らかにするようなことはできないと判断された様子。ところが、結果的には1281年、文永の役により更なる大勢力が日本を襲ってきた。弘安の役だ。

当時においても国際社会の常識として外交のためにやってきた者の安全を保障するのが当たり前。ということから考えると、当時の日本においては外交というものがなかったとも言えるとコメントが付されている。

元は文永の役以前に6度にわたり日本に使節を送り、そのうち4度は九州の大宰府に到達しているという。でも日本側は無視を決め込んでいたらしい。話し合いに益なしだと。元の使節の中にも何とか戦争にならないようにと動いていた人物もいた。それが女真族出身の趙良弼(ちょうりょうひつ)は2度来日し、皇帝フビライに日本の征服で得るものはないと進言していると。

一方鎌倉幕府は文永の役の後朝鮮半島への攻撃を計画したらしいが、その異国征伐は実行されることはなかった。博多湾に石垣の防塁をめぐらすことに優先順位を変えたと考えられていると。専守防衛だ。結局攻撃計画に対する実行力がなかったことが幸いしたとみる専門家のコメントもある。高麗の軍もモンゴル軍も強敵であることは間違いないし、歴史的な事実を知る由もないけど、正解だったのではという思いになる。

元寇ではよく嵐も日本側に味方したという風説はよく知られるところで、それが間違った神風信仰につながり、根拠のない甘い考えで太平洋戦争では散々な目にあっている。当時の教訓として得るものは何か?

やはり当時の外交はお粗末だったと考えるべきで、元からの使節団を拒否し協議する機会を遮断し、何とか元に服属することなく、かつ戦争をも回避する道を探すことはできなかったのだろうか?と考えるべきなのかも知れないと記されている。結果オーライの史実だけに済ませることなく、この史実から学ぶべきことを再考するということも必要なのだろうか。

日本も無論、ロシア、中国、北朝鮮と外交関係は緊張的としてとらえるべきで、外交の益があったかどうかという評価にはなかなか達していないのではないのか?そんな曖昧なもので、国内の深刻な課題を解消できるほどなの施しなのだろうか?なんかいつも政治という世界は物語の中で勝手な脚本家がたくさんいるようにしか見えないというのは庶民感覚なんだろうか・・・。

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