自分史的なクリッピング史料

昨夜も山手線内で、凶暴な事件が起きたと朝からメディアで取り上げられている。3日連続での大きな事件。何とも苦々しい新年のスタート。今ベストセラーにもなっている「訂正する力」(東浩紀著)を読んでいるけど、一体今住んでいる世界(観)はどうなっているのだろうか・・・。
今日のチョイスは中野孝次。

2020年12月16日 時代の栞 「清貧の思想」1992年刊 中野孝次
古人に学ぶ簡素な生き方

実は中野孝次のもう一つのベストセラー、「ハラスのいた日々」も愛犬を亡くしたペットロスを理由に購入。とてもリアルな飼い主と動物(愛犬)の共生・愛情物語は本当にいい本だなぁと感慨深げに読み通した。

1993年、日本新語・流行語大賞は、「Jリーグ」だったそうだけど、流行語部門の銀賞に輝いたのが「清貧」。この言葉を蘇らせたのが、約70万部を売り上げた(当時)、中野孝次著の「清貧の思想」。これも2年前に読んだ。

本阿弥光悦、鴨長明、吉田兼好、良寛といった俗を離れた古人の生き方を紹介して、(日本には)「ひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある」と。

バブルに踊らされた人たちをきっと諭すように、簡素な生の形態、清貧にスポットライトを当てた。何かがおかしいと感じた時に、真反対のメッセージを打ち出したのが幸いしたのだろうと編集者は語っている。出版社には読書カードもだいぶ送られてきて、「狂騒(バブル)に疲れた」といったコメントもあったと。一方で経済学者などは「清貧」ではダメだと反論していたらしい。

今バブル崩壊とは違う世相感、コロナ禍も経験した現代は「清貧の思想」をどのように受け止めたらいいのだろうか。著名な文芸評論家は、「バブル崩壊期の典雅な寝言だ」とバッサリ切り捨てている(文中によれば)。反貧困ネットワークの世話人も「清く正しく美しくを実践できるのは中流より上の人の話だ」とこちらもバッサリ。清貧の思想が固定化することで、ますます中流以上が勢いづくだけで格差は広がるばかりだと。

それでもモノが溢れる現代社会でシンプルな暮らしへの憧憬は根強いことも事実。2015年、ユーキャン新語・流行語大賞に「ミニマリスト」がノミネートされ、ミニマルの所有を求め、簡素ながらも丁寧な暮らしを実践する人たちに注目が集まった。丁寧な暮らしという響きがいいなぁ。

記事でコメントを寄せるミニマリストは、価値観や生き方を宣言したことにその意義があると思うと。時代にあった価値観を創造ということか。
ミニマリストは心の清貧を求めるものとは違うかもしれないけど、源流は同じかもしれないとある経済評論家は言う。

中野孝次は、「新しいあるべき文明社会の原理は、われわれの祖先が作りあげたこの文化ー清貧の思想ーの中から生まれるだろう」と前書きに記したとこの生地は結ばれている。

自分もバブルを経験し、モノの大切さを忘れ、何でもそろえていけばいいんだという若気のいたりがあった。別段でミニマリスト・佐々木典士さんが、コメントを寄せているが、「清貧の思想」はミニマリズムに通じるものがあるとしながらも、今日においてそのミニマリズムも歪んてしまっているのではと危惧もしている。例えば、シンプルなライフスタイルを他人に誇示することが目的になっている人や、単にモノを減らせばいいという極端な人などの出現を例にあげている。

佐々木さんは、自身のコメントの結びで、昔の人は芸術を究めるためにあえて清貧を選んでいるのであり、値段をつけてお金と交換してしまうと壊れてしまう何かがあると気づいていたのではないかと。

それは現代でも同じだと。コンセプトという言わば無形価値資産が流行するとすぐにそれをマネタイズする輩が出てくる。資本主義社会だから? これを仕方がないと思いつつ、ある価値観があれば、常に別の補助線が引けるように別のコンセプト(というか観念、考え方)を持てるようにできればいいと常々考えている。できているかは別問題。

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