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専門学校時代

安曇野でのバイトで自分に少し自信を持てるようになり、翌年、親の支援も受けてCADの専門学校へ入学したのだが、クラスメートの九割が高校を卒業したばかり。年齢が五歳くらい離れている。他に、二十代前半の留学生が一人、六十を超えた年配の方も一人いてくれたのは良かったが、自分の心はまた萎縮してしまった。

話し相手はできたものの、年齢的なものをいつも意識するようになって、焦りは強くなっていった。うつ病で苦しんできたということも隠して通っていたし、大学を中退したということも卒業する日まで隠していた。打ち明けられる環境ではなかった。高校を卒業したばかりのクラスメートとかはそういうものに対して寛容な気持ちを持っていなかった。ぼくが高校時代だった頃もそういうたぐいの人たちに囲まれてきたから、理解力が持てないのは仕方ないんだと思えた。

ちなみに、専門学校に入る前に、姉と父は東京から地元の神奈川に戻っていって、ぼくは一軒家に一人暮らしになっていた。祖母が亡くなって世話をする必要がなくなったし、父は定年退職して都内で通勤する必要もなくなったからだ。

風呂やトイレ、洗面台がないなど苦しい環境に変わりはなかったが、一人で暮らすことで気持ちが少し楽になった。

専門学校では年齢が上ということもあって周りより頑張らないとという思いから、自宅でも自主的に課題を見つけて、CADの操作に慣れていった(プラモデルを買ってきて、パーツ一つ一つをモデリングしていった)。プラモデル・玩具の設計に興味を持てたことも、CADが楽しいと思えたことだった。

うつ病でも、少しでも楽しいや好きと思えることがあると、それに取り組む意欲は出るし、集中力は持続する。その楽しいや好きをどうやって見つけられるかがカギとなってくるのだけど。

 

それでも、学校に通うのがかなり億劫になったり、周囲に馴染めないなど、居たたまれなさは常に抱えていた。自分を否定されているような気持ちにさせられることも多く、身体の震えを隠すのも必死だった。

あの安曇野でのバイトの経験は何だったのか。自分に対して自信が持ててきたはずだったのに、また自信を失っていく日々に逆戻りだった。


専門学校二年目を迎え、就職活動というのも初めてした(大学は二年間しか在籍していなかったので)。

玩具会社を主に受けていった。自主的に課題に取り組んでいたのも玩具を使ってだったし、正社員として仕事をするなら楽しいと思える仕事をしたかった。うつ病でも、楽しいと思える仕事ならきっと症状に悩まされず長続きできると思ったのだ。

もちろん、小説家になるという夢もあきらめたわけではなかった。専門学校に通っている間もしっかり創作活動はしてきたし、インターネットの小説投稿サイトなども積極的に利用して腕を磨いていった。

しかし、小さい玩具会社など数社で面接試験を受けても、なかなか受からなかった。面接はしても元から採用するつもりなんてないという態度のところもあった。

早く就職しろ、と親からはプレッシャーをかけられ続けていたので、学科内で一番早く内定はもらった。受かったそこは学校の卒業生も何人か入っている会社だった。玩具の設計も行っている会社だと聞いていたのだ。

※ただ、この焦って決めたのがのちのち悪い方向に行くことになるのだった。

 

在学中の夏には東京ドームで清掃のアルバイトもした。二週間程度だったけれど、これはとても良い経験になった。これをきっかけに東京ドームに独りでも野球を観に行こうと思うようになったり、ライブを観に行こうという気になれた。一人で来てる人も多かったし、仕事帰りに気軽に東京ドームに足を運んでいるんだなぁ、というのが知れたのが本当に大きかった。

 

卒業間近の冬には肺炎を起こして入院してしまった。三日ほどで退院できたものの、入院するという経験も初めてした。入院中は退屈で仕方なかったけれど。

父親はこの入院したことに対しても、のちのちかなり不服だったという言葉をかけてきた。そういえば、ぼくがまだ小学生の頃のことだけれど、母が病気で入院した時、父はお金がもったいないから早く退院させてくれと医師にクレームを言ったことがあった。ぼくの入院に難癖をつけてきたのも、それと似たようなことだった。父は家族のことよりも自分のことが第一で、生粋のクレーマーなのだ。

 

二年間きっちり専門学校に通って、ちゃんと卒業できたのは、かなりの成長だったと思う。卒業制作を大きなステージで発表する時も、震えを抑えてどうにかできたのだ。スピーチ時間もみんなの中で一番長かったという。話そうとすると、今度は話したいという思いが出てしまうらしい。

その時の写真とかを見ると、入院したこともあって大分やつれてはいたけれど。

六十代を超えた年配のクラスメートがいてくれたことも本当に心強かった。よく頑張った、と自分を誉めてあげた。あの時は学費を出してくれた父親にも感謝の言葉をかけた。

そして、春からは初めて正社員として働くことになるのだった。

 

専門学校も無事卒業できたし、うつ病も少しずつ快方に向かってきたかなと思っていた。

うつ病を克服してやりたい仕事ができるんだと希望で胸を膨らませた。

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