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1995年1月17日早朝

5時46分00秒

 胸騒ぎがして、目が覚めた。
 辺りはまだ暗い。室内とはいえ、朝の空気は冷え切っていた。隣で眠る幼い息子の寝息以外は何も聞こえなかった。
 子供の体温は高い。
 布団の中で手を伸ばして、そっと引き寄せる。背中にうっすら汗をかいている。手のひらに、息子の心拍と呼吸のリズムが伝わってくる。
 小学生になってから、急に成長した気がした。痩せているけれど、肩も背中もしっかりしてきた。
 突然、爆音がした。何が起こったのかがわからず心臓が早鐘をうつ。
 確かに、体が浮いた。
 必死で、息子を抱きしめる。
 体は、それ以上自由には動かせなかった。地面に繰り返したたきつけられ、激しく揺さぶられ続けていた。
 大勢で、床を踏みならすような音が体に直接響く。
 地震だとわかるのに、数秒かかった。その数秒も長く長く感じられた。
 地鳴りの中に完全に閉じ込められていた。壮太を強く、抱きしめることしかできない。二人で脱水機にかけられているみたいだった。
 閉じた目を一瞬開けてみたが、同じように暗闇だった。否応なく、下から突き上げる衝撃が続いて、終わるのを願うしかなかった。
 ガラスが砕ける甲高い音が聞こえた後、体が落ちていった。
 内蔵が、遅れてくるような感覚があった。
 壮太と、掛け布団を必死で掴んでいた。上から物が次々と降ってくる。肩や頭に衝撃があった。目をきつく閉じているのに、目の前に火花がちる。
 壮太に当たらないようにと、上に覆い被さろうとした。
 木が打ち鳴らされ、こすられ、折られ、ぶつかり合うような、雑音の波にのみ込まれる。
 最後に下からの強い衝撃があって、全身に痛みが走った。
 痛みに耐えながら、自分の身に起きていることを整理する。
 家が崩れたと理解ができた。
 腰の辺りに、柱が横たわっている。押しつぶされそうな圧迫感だ。どうにか抜け出せないかと体をよじったけれど、体のあちこちががれきに挟まれていて体勢もかえられない。
 目の前で壮太が泣いている。
「どこか痛いん?」
「足が、痛い」
 なんとか自由に動かせる左手で壮太の頭を撫でる。
「大丈夫やからね」
 そう言いきかせたものの、大丈夫な気はしなかった。もちろん、今までにこんな経験はなく、何が起こったのかもよくわかっていなかった。
 揺れは、一応おさまっていた。
 カビや木片や土や、入り交じったにおいが充満して、噎せた。
 壮太がホコリを吸い込まないように、布団を必死で引っ張ったが、びくともしなかった。
「できるだけ顔を隠しときよし」
 声をかける。
 壮太は、顔を私の胸に埋めた。
 震えながら泣いている。
 とっさに地震だと思ったけれど、本当に地震だったのかもわからない。
 爆弾が落ちたのかもしれない。
 私達はいつも二階に寝ていた。ちょうど真下には、夫の両親が寝ていた。
 夫は、昨夜から東京へ出張している。
 壮太は泣き続けている。
 よほど痛いのだろう。自分自身も、全身に痛みがあった。額が濡れているから、多分出血している。あちこちがズキズキと痛むから、まともに思考が働かなかった。
 鼓動は、今も全力疾走の後のように速い。
 埃っぽくて、何度でも咳き込んでしまう。一旦、布団の中に顔を隠して息を整えた。
 布団の中の空気は温かだった。壮太の汗と、尿のにおいがした。
 大人でも状況が把握できずにこれだけ怖いのだ。まだ幼い壮太にはただただ恐怖があるだろう。
 ようやく目も慣れてきた。壮太が顔ゆがめている。
 自分を横切っている柱以外にも、あらゆる物が折り重なって、今微妙なバランスでとどまっているのがわかった。
 ぱらぱらと何かが降り注ぐ音や、ミシミシときしむ音が、あちらこちらから聞こえてくる。
 さらに崩れるかもしれない。
 夜明けが近づいている。
 布団は幸いにも体にかかった状態だったけれど、壁も崩れて、外気にさらされてる。震えるほど寒い。幼い壮太が心配でたまらない。
「壮太」
 何もできなくて、ただ目の前で泣いている息子の名を呼んだ。
 ふと、下で寝ていた夫の両親が心配になる。
「お義母さん、お義父さん」
 声を振り絞って呼んだみたが返事はない。自分たちの更に下で、二人がどんな状況かを考えると、悪寒が走った。一気に血の気がひく。私達のこの状況も、これ以上崩れてきたらどうなるかわからない。不安で、夫の顔を脳裏に思い浮かべた。
「そうや、大丈夫、お父さんが助けに来てくれはる」
 息子に笑いかける。頬が震えて、涙が溢れた。
「お父さんが、助けてくれはるえ」
 震えて、言葉になっていない。
 そう思うしか、自分を保つ方法がみつからなかった。
 少しずつ、辺りに色がつき始めた。
 柱になぜか、タンスの引き出しがひっかかっている。天井の板が、割れて、とがって、壮太の頭の後ろに刺さっている。
 後十数センチでもこちらに近ければ、壮太の顔に刺さっていたかもしれない。
「よかった」
 壮太の頬を手のひらで撫でた。涙で濡れている。
「痛くても泣いてたらあかんえ」
 夫は東京だ。どれだけの規模の災害かまったく予想もつかない。多分ここへ来るのに時間がかかるだろう。体力を、とにかく温存しなければ持たない。
 何度か、揺れた。
 その度に、折り重なる柱が不気味な音をたてる。
 私は、壮太を抱きしめて「助けてください」と、ただ祈った。
 頭を撫でる。
 肩をさする。
 壮太の不安を少しでも和らげてあげたかった。
 私は……人は、こんなにも無力なのかと思い知らされる。
 折り重なる、家具や柱の向こうから、光が差し込んできた。
 大量のホコリが舞っている。
 それらが、きらきらと輝いていて、こんな時にキレイだなんて思ってしまった。
「ああ、どないしよ……」
 下半分の感覚がないことに気がついた。
 唇の先に痺れがある。
「壮太、お父さんが助けてくれはったら、みんなで、美味しいもん食べような」
 壮太が、顔を私の方へ向け、かたくつぶっていた目を開けた。
 額に、額をつける。
 壮太に、笑いかけようとした。
 気が、遠くなる。
「ちょっと、お母さん、寝ちゃうかもしれへん」
 壮太にも自分にも言い聞かせる。
 この子を残して、死ぬわけにはいかない。
 せめて、もう少し大きくなるまでは、そばにいてあげたい。
 ああ、でも、だめかもしれない。
「何があっても、生きててな」
 そっと、目を閉じた。
「お母さん」
 遠くに、壮太の声が聞こえた。 

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