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デスマスク制作についての回想

 三年前に祖父が亡くなった。遺言により、筆者がデスマスクをとることになった。その時は作業に集中して他の感情がよくわからなくなっていたのだが、久しぶりに実家に帰りまだ散骨していない骨壷を持つと、恰幅の良かった祖父であったのに、ひょいっと片手で持ててしまった。
 戦争や疫病、災害などが頻発する中、人間が人間らしく死ぬ、ということはどういうことなのだろうと考えさせられる。
 それらの思考も含め、当時書いた文章をnoteに書き写そうと思う。当時(2021年)は高校三年生で文章は幼いが比較のために原文のままとする。


祖父の死

 昨年5月、祖父の胃癌が発覚した。末期。余命二ヶ月。約二年前からの発病。手術不可能。毎日一緒にいて気がつかなかった。祖父という存在を失えば祖父に関する全記憶を失うかもしれないという恐怖感があった。苦しまないでほしいと思った。
 祖父は即座に葬儀屋に連絡し、死の準備をした。
 宣告後、祖父の食欲は見る間に落ち、痩せこけた。
 それから、祖父は私に死と向き合わせるための課題を出した。デスマスク制作である。祖父はデスマスク制作の承諾をホスピスと葬儀場に求めた。遺体に触れる許可を必要としたためである。
 私にはライフマスク作成の経験すらなかった。制作方法を調べ、祖母や父にモデルになってもらい、試作を重ねた。医療用型取り剤(アルジネート)では効果時間が短く失敗したため、硬化時間が比較的長い素材に変えた。失敗の報告続き。しかし、祖父は信頼してくれていた。
 映画好きの祖父は常々家族揃って「ベン・ハー」を見たいと言っていた。昔見た際、運命に翻弄されながらも修羅から肺上げる主人公、CGなしの映像に人間の生命力を感じたという。
 念願かない、家族揃ってみたその作品に私も感激した。だが、作品の熱気で祖父の命が続いてほしいという淡い期待は外れ、その次の晩から容態は悪化。家での看病が困難となり、ホスピスに入院した。見舞いは新型コロナウイルスによる制限を受けた。
 祖父が息を引き取ったのは宣告よりも一ヶ月遅かった。ベン・ハーのおかげか元々の生命力の強さか。
 葬儀場の待機部屋でデスマスクを作った。祖父の体はとても冷たかった。

言葉と孤独

 時に言葉は嘘をつく。私が死に立ち向かう際の感情はなんだったのか。鈍感。自己憐憫。哀惜。冷笑。自嘲。苦。安堵。畏怖。喪失感。乖離。
 喜怒哀楽では無論、足りない。言葉が見つからなかった。言語化を求めてはならないと自戒したが、同時にその言葉を見つけることが救いになる気がしていた。
 命名し分類することは平静を取り繕う効果がある。名前を覚えただけで全て理解した錯覚さえ起こさせる。
 しかし、私の誕生以前から存在する感情の名前に、湧きあがった自分の感情を押し込めるような脳内の作業は言い難いざらつきを残した。
 言葉は通貨のようだ。共通の価値、意味を持つ。物質的な貨幣に価値がなくとも、共有されたルール上で価値を持つ。感情の名付け親は素晴らしい発明家だが、その便利さと引き換え、言語化できる感情以外を感じる可能性を奪っているのではないかと思った。実際、言語化できない感情は私を苛立たせた。狂気、異常と、安易に呼ぶこともできた。脳は感情に向き合うことより先に分類することを強いた。言葉が私を愚弄した。

 絶望的な孤独を感じることが多々ある。孤独感は一人でいる時はほとんど感じない。他者との会話で浮き彫りになる。
『人間は何よりも透明で青く光、ルビーの背骨が陽に透けた肌を赤く照らし、薄皮一枚隔てた液体。しかし、決して混ざりあわない。』
 そのようなくだらない空想を始めるほどに他者との会話で孤独が深まる。理解しようと互いに相手の表情を読み取り、聞き、発声しているのだ。
 対話の様子は互いの脳に触手を伸ばしているようだ。だが、借り物の言葉で」上滑りし、しかも相手に何が伝わったかも感知できず、次第に相手は自分の中から消えてゆく。互いに、もはや自問自答に近い発声。この孤独感を、私は『完璧な独り言』と呼ぶ。
 いつも傍にいる、というフレーズはその不可能さ故鮮やかだ。オスが雌に吸収され融合一体となるチョウチンアンコウならば可能だろうが、しかし彼らが深海で孤独を感じていないとは言い切れないではないか。

 生者より、死者を近く感じる。彼らは体がないがために自在だ。死者がいる限り、孤独ではない。死者は内面化される。死者は私自身になる。言葉の綾だろうか。しかし、私はそう実感した。実態のない人間は想像の中で生きる。創造者を裏切らない。思い通りにならない生者との疎通に昇進した人間の倒錯か。その構造は神や偶像に縋る人間の根本的眼差しかもしれない。
 

死の過程

 デスマスク自体は死者の顔貌を残した物体でしかない。デスマスク制作は、死者の顔型を残す行為だ。しかし、制作前、それにどんな意味があるかを考え続けた。デスマスクに、顔型という物理的要素以上の意義を見出したかった。
 死は一種の過程だ。瞬間ではない。
 死のプロセスは長い。生まれた時から始まっている。その長さゆえ、死の定義づけは困難だ。本人が生きる気力を失った時、息を生きとった時、死亡届の提出時。社会的に忘却された時。脳死。心臓停止。
 来世を信仰するのならば、死者は永遠の魂を持ち宗教的復活を遂げる。

 解釈の差異で人は死に、死してなお生き、単なる物体ともなる。
 
 私は祖父が昏睡に陥った状態を見た。呼吸が止まった姿も見た。デスマスク製作中は遺体に触れていた。焼却後、骨の身になった姿も見た。祖父は肉体は滅びても私たち家族の傍らにいると言った。
 
 確かに作ったデスマスクは単なる物体だが、私には制作過程に意味があった。向き合った時間の長さがグリーフケアになったのだ。デスマスクは死を具体化し、文脈化する。そして、死者のオブジェ、崇拝するための偶像、残された者たちの悲しみの行き場を与える。

生きている意味

 祖父が希望した葬送は散骨だ。散骨で一切がバラバラになり、循環するということが祖父の浪漫だった。体は地球の材料としてまた元に戻るのだ。体は借り物だと教えてくれた。私もその在り方が納得できる気がする。
 人間はその生き様を他者の記憶に残す。忘れられた時が死だ。記憶による生もまた無常だ。
 その無常さゆえ、時々生きていることは無駄ではないかと思う。死が全てを無に還すならば、苦労して生きるだけの価値があるのか。この世は生きるに足るのか。
 
 葬儀場が海の近くだったため、火葬の前日、海を眺めに行った。波の音は今まで聞いたどの音よりも大きく、轟音とも言えるほどで、全身を包まれるようだった。その中に数えきれないほど生き物が犇いている。破壊と恵みのうみだ。私もいずれそこに帰る。自分の体よりも大きな自然を目にすると、自分はちっぽけな歯車だと思った。私は、生物学的には人類の存続を目的とした存在。経済学的には労働者予備軍。宇宙から見れば小さすぎて見えない。地球すら無に等しいかもしれない。統治するため人間が作った便宜上の分類の中で競う人間を創造者不在の宇宙は全く意に介さない。
 中学生の時、とある本の中にケインズの『我が孫たちの経済的可能性』からの引用があった。
『私の結論は次のようなものである。すなわち、重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済的問題は百年以内に解決されるか、あるいは少なくとも解決の目処がつくであろうということである。これは、経済問題が、将来を見渡す限り、人類の恒久的な問題ではないことを意味する』
『しかし、人生を耐えられうるのは歌うことができる人たちにとってだけであろう。そして、我々のうちで歌うことができるものはなんと少ないことだろう!かくて人間の創造以来初めて、人間は真に高級的な問題、経済の切迫した気持ちからの解放をいかに利用するのか、科学と指数的成長によって獲得される余暇を賢明で快適で裕福な生活のためにどのように使えば良いのか、という問題に直面するであろう。』
 中学生の時は、自分の存在意義を、他者に貢献し承認されることで証明したいと考えていた。しかし、承認欲求を同期とする不純さに気づき自己に失望した。高校に入学してからは、新しい価値を創り上げて歴史に名を刻みたいと大それたことを夢見ていた。だが、祖父の死により、「目的」があることが自分にとって「意義」を持たなくなってきた。
 「存在」だけで生き、死にたいのだ。何も残らないからこそ、今存在していることに価値がある。一回声が価値を持つ。皆、存在と非存在の間に置かれている。その存在も非存在になる過程も理屈なしで肯定したい。何も、素の自分に価値があるから認めてほしいというのではない。もちろん存在が価値を持つかどうかは他者に規定される要素が大きく、得にエンターテイメントが目的であれば他者の評価が全てとさえ言える。
 しかし、自分が生きていることを積極的に公的できなければ絶対に生きている価値など見いだせない。誰かに否定された瞬間に死を選ばないとも限らない。ケインズの言葉『歌えるもの』は『歌唱』そのものを指すのではなく、より広い意味での思考や表現と捉えたい。
 私たちは働かないと生きれない社会にいるが、そうではない社会が経世済民の末に実現した時、その余暇をどう使うか。
 与えられた誰かの価値観で作られた目的に従い安心を得るのではなく、互いの存在を完全に肯定しながら自己の価値観で生きるのだ。孤独は決して薄まらないが、瞬間に感じる一体感は喜びになる。
 一回性のアートである僧侶が砂に描く曼荼羅について聞いたことがある。曼荼羅は、密教で用いられる悟りの境地や仏の教えを示すために、仏・菩薩などの像を一定の形式に従って描き並べた図絵だという。緻密な曼荼羅を描いた後、描いた僧が全て消してしまう。空の空想の体現なのだろう。私はその思想をニヒリズム的に捉えていたが、生を主観的に公的できれば空である現実はむしろ私たちに自由を与えるかもしれない。空は創出の余地だ。その空はいつまでも埋まらない。
 人間の好奇心は、未知を既知に変えようとする情熱だ。その情熱で、空、言い換えれば虚無感を人類は埋めようとしている。
 自由を求めている。空を絶対に埋められない自由と捉えれば、どうせ死ぬなら生きていても同じだとは言えない。そして、自分の存在を頭から否定したくなった時に生きることを積極的に肯定できるきっかけを探し続けたい。


実際のデスマスク
2020 石膏.流木


練習で作ったライフマスク
残像として
クレパス・画用紙(2020)


2024/01/08noteにて再掲


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