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「しまのかみ」に込めた思い

 僕がnoteで使ってる名前ですが、他のところでも使っています。北海道内の高校にお邪魔して生徒たちと話す「カタリバ北海道」という団体(母体はNPO法人いきたす)があって、大学の知人に誘われて僕はそこに入りました。そこでは、大学生側は本名を出しちゃいけないみたいで、ニックネームを名乗ります。そこで僕はこの「しまのかみ」という名前にすることにしました。そうすると、大学生やそして高校生からも由来を聞かれます。中には、「しまのかみ」の「かみ」を「神」と変換する人がいますがまさか自分のことを「神」などということはしませんよ(笑)この「しまのかみ」の由来やなぜこの名前を使っているのかを説明するのにいつも時間がかかっていましたから、今回このことで記事を書いてみようかと思いました

・漢字にすると「志摩守」

この「〜守」は通称武家官位というもので、もともとは律令制の国を治める長官の意味でした。しかし、律令制がくずれてくると有名無実化し、「〜守」だからといってその国の主というわけではなくなりました。戦国時代は朝廷が貧しかったので、武士に官位をあげ、(支配している国に関係ないことも多い)その見返りにお金をもらうということがよくありました。また、織田信長のように朝廷に許可なく勝手に武家官位を名乗っている例もあります。
戦国時代を扱った大河ドラマとかをみるとその点がよくわかると思います。例えば、織田信長は「上総介(かずさのすけ)」を名乗っていますが、上総(現在の千葉県)を支配していませんね。あと、真田昌幸は「安房守(あわのかみ)」を名乗っていますが、安房(千葉県南部)を支配していません。つまり、戦国時代には自分の支配している場所と関係のない「〜守(かみ)」「〜介(すけ)」が名乗れたわけです。なお、「すけ」は「かみ」のワンランク下です。全国どこでも「〜守」が名乗れたわけではなく、上総、上野、常陸の三国は「親王任国」といって、古代の一時期に親王を守にしていました。その名残が戦国時代や江戸時代にも残っていて、基本的にこの三国の場合は守ではなく介を名乗りました。(「吉良上野介」もその一例)

大河ドラマとかをみていて、僕はこの「〜守」をなんとなくかっこいいと思っていました。そして、先に述べたカタリバでニックネームを考える時、そういう潜在意識があったのでしょう、深く考えずに「志摩守」と思いつきました。これはなぜかというと、松前藩主が多くに名乗っていた武家官位だからです。

小樽出身である以上、僕にとって一番身近な大名といえば松前家です。

そして、その松前氏の祖、松前慶広が豊臣秀吉から与えられた武家官位が「志摩守」だったわけです。
(もっとも、このときは松前ではなく蠣崎姓だったが)志摩国は今の三重県の一部ですが、僕は秀吉は適当に志摩守にしたわけではないと思っています。
慶広は秀吉から志摩守を与えられたタイミングで、もとの主君であった安東氏の支配を正式に脱し、名実ともに北海道の和人を束ねる存在となりました。秀吉の直接の家来ということになるので、大名クラスになったわけです。北海道は古く「渡嶋(わたりのしま)」と呼ばれてたとする説が有力になってきていて、しまのかみの「しま」とは北海道のことをいっているのではないかと思っています。

・「志摩守」の名に恥じぬよう

松前には小学生の頃から何度かいったことがあり、人生で初めてみた和風城郭が松前城でした。藩は今はなくてもこの地に込められた先人たちの思いを伝えていきたいです。そうすれば、かつて松前にいた人々はこのさきの僕らの心にも生きていることになると思っています。幕末に藩主を務めた松前崇広ハ老中を務め、当時の政局に関わっています。
また、松前藩だけが北海道の歴史ではなく、アイヌ民族の歴史もしっかり伝えていかなければ、と思います。かつてこの北海道にいたアイヌの人々のことを忘れず、記憶に残し続けていきたいです。特に松前藩があった江戸時代、そしてその後の時代もアイヌの人々は苦しい立場に置かれていましたから、そういう記憶が消えないようにしたいです。
ただ、誤解してほしくないのは、


僕は歴史を通じて対立や恨みをかきたてるのには断固として反対です。

人間、やはり記憶から消えてしまうのが一番悲しいことだと思います。自分が属する集団の文化や先祖たちの事跡。自分がずっと大事にしてきた価値観。こういうものが奪われ、記憶から消えようとする時、奪われる側は憤りを覚え、争いに発展するはずです。それを防ぐためには、人種や信条、立場に関係なく、一人でも多くの先人が生きた記憶を伝えていくことだと思っています。そして、その記憶を自分の心にしっかりととどめておくこと。これは北海道以外の土地でもそうです。

この気持ちさえあれば、生物的になくなってしまった人も「消える」ことはありません。僕らの心の中で生きることができます。

生物的に亡くなってしまうことは誰にも止められないし、それ自体は悲しいこと。けれど、あとに残った人の気持ち次第で記憶は伝えていける。そうすれば、時間はかかっても悲しみや負の気持ちにも勝てると信じています。

歴史を通じて、むしろ対立が融和へと向かうようでなければならないと思います。もし、対立を煽るような歴史の使い方に出会ったら、冷静になってみましょう。


「志摩守」の「しま」を北海道とする以上、和人のことでも、アイヌのことでも、もれなく後世に伝えていきたいです。





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