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ゴッホ・宮沢賢治・ロールシャッハ〜37歳という季節〜


今月で37歳になった。子どもたちのいわゆる「保育園の洗礼」をもらい、咳き込み、声を枯らしつつ、疲れの取れないお父さんな毎日を送っている。世の中には本当にたくさんの「風邪」があると感心する。

先日、学部3年生のゼミでとある学生が発表中に27クラブ(27歳で亡くなったスターたちの総称、バスキア、コバーン、ジミヘンなど)についてふれていて、そう言えば自分もこのあいだまで27歳だったのに、あれから10年も経ったのかと思い驚愕したのだった。

そしてふと気になったので、37歳ではどんな方々が亡くなったのか(縁起でもないと言われそうですが、メメント・モリということで)調べてみると、いわば"37クラブ"も錚々たるメンバーで、絵に描いたような「若すぎる死」の面々が並んでいた。

まずは激烈なアーティストたち、精神を病みながらも激動の人生を送ったファン・ゴッホ。以前、巡回展で『ひまわり』の現物を鑑賞した時に、あまりの禍々しさに震え上がり具合が悪くなったことがあった。他にもモディリアーニや、詩人のランボーも37歳で没した。アーティストたちの太く短い人生にぼんやりと憧れることもあったが、今はもうそういう人生の季節ではなくなった。

日本では、雨ニモ負ケズ各地に肥料を売り歩き、過労が病床に臥した宮沢賢治。たくさんの作品を残した賢治はもっと「中年」に亡くなった人という印象があったけれど、時代は違えどつまるところ自分ももういわゆる中年になっていたのだ、悟りブーメランが刺さる。
あるいは、坂本龍馬の時代、道半ばで逝った土佐藩士の武市半平太も、享年37歳。大人は色々あって大変だな、と昔は思っていたのに...同じくブーメランが刺さる。

他にも、小さい頃に憧れた格闘家アンディ・フグも37歳で亡くなっていた。K-1ど真ん中の世代として、訃報を聞いた時はとてもショックだった。

もちろん、女性も37歳で亡くなった著名人は数知れず、例えばフランス革命で処刑された悲劇の王妃マリー・アントワネット。マリリン・モンローも37歳になる年齢になくなっている。パパラッチに追われた末に事故死?したダイアナ妃も37の年。

心理界隈でいうと、インクプロットテストで有名なヘルマン・ロールシャッハ。世界三大イケメン心理学者?としても知られるロールシャッハも37歳という若さで亡くなっている。
早世の人というと、先に挙げた芸術家たちのように、不安定な人となりや激動の人生を想像しがちだけど、ロールシャッハも確かに芸術的なセンスに溢れた人だったが、真面目で優しい人だったようだ。スイスで行われた回顧展についての記事にこうある。

「彼はとても優しい父親だったと思います。それは 彼が ( 自分の子供たちのために ) 描いた素猫にも現れています。そして注目すべきことに、その当時は母親の仕事とされていたこと、例えば『おむつ替え』を彼はしていました。また性別による役割についても非常に現代的な考えを持っており、 ( 医者だった ) 妻は母親だけであるべきではないと言っていました。彼にとって、自分が育児へ参加するのは当然なことだったのです」

swissinfo.ch「心理学史に残る『インクの染み』」


当時にしては珍しく?、ロールシャッハは「子煩悩」だったようだ。一昔前だとイクメンと呼ばれるであろう彼は、そうは言っても30代半ばの忙しい時期に、大きな仕事である『精神診断学』を刊行した後、虫垂炎を悪化させ腹膜炎を起こして他界した。

今サラッと書いたけれど、よくよく考えると、「子煩悩」というのは凄い言葉で、長らくの間、子どもは伝統的に男性にとっては「煩悩」だったのかと思うと複雑な気持ちにぬる。確かに二回り上の世代くらいまでは、子供の世話ごとやら悩みを、仏教で言うところの「煩悩」として扱い、払いやけ、捨て去り、仕事に邁進するのが標準的な生き方だったのだろう。

そう言えばちょうど自分が中学生の頃、TRFのSAMさんが起用されたポスターで、今でいう厚生労働省が「育児をしない男を、父とは呼ばない。」というキャッチコピーを使っていたのを思い出した。

ネットに落ちていた当時のポスター

このポスター、中学生の時に見て「そうなのかぁ」とずいぶん印象に残った、というか刺さった気がする。この手の啓発的な文言は断定的な表現になるので、人によっては「自分はダメだ...」とショックを受けるかもしれない。当時もそういう声が多かったようだ。

そのあと2000年代になって"イクメンブーム"が到来し、「子煩悩」は消すものでも払うものでも何でもなく、むしろ逆に社会的に強く求められるものになる。僕自身の父親は、御飯時や休日にはよくいろんな話をしてくれたり、外に連れ出してくれたものの、新聞記者という仕事柄、いわゆる子煩悩、イクメンというわけではなかった。今の30代くらいまでのパパたちは、自分の父親がイクメン世代ではなく、直接は育児する父親というイメージに実感を伴わないまま、仕事に家事育児に翻弄する手探りの毎日を送っている、そんなが多い気がする。同世代の似た悩みを耳にすることは多い。

37クラブ(勝手に言ってます)の錚々たる面々とは違い、僕は何か大きな仕事を残しているわけでもなく、各所に原稿を落としお詫びして、仕事の遅れを平謝りさはて暮らしている。30代は業績が落ちる、と諸先輩方が昔話していた。そう言えば音信不通になったり、しばらく遁走?したりした人もいたけれど、今ならその気持ちがわかる気がする。

37歳という人生の季節を迎えて、もう自分自身の樹の「幹」を太くし、枝を茂らせる季節が終わりを迎えつつあるような感覚がある。自分の葉を枯らして落としつつ、養分を実にまわし暮らしている。諸先輩がたに言わせれば「まだ若いんだから」と言われそうだけれど、確実に季節は巡っている。

いくつかsnsをやっているが、facebookでは友人限定でライフログを投稿している。なかでも「#パパの身体論」と銘打って、育児に翻弄する生活のなかの気づきや喜び、愚痴や苦悩などなどを、身体論という文脈で(あんまり論じてないけど)投稿したりしている。この投稿をいつも楽しみにしている、と嬉しいコメントをいただくことがだんだん増えてきた。
こういった投稿を始めようと思ったきっかけは、内田樹先生の三砂ちづる先生との共著『身体知-身体が教えてくれること (木星叢書)』だった。本の宣伝文句として、身体性の大切さに気がつく契機として「女は出産、男は武道」と書かれていて、この言い回しにひっかかったのだった。
僕自身も武道経験者なので、武道の大切さは重々承知している。男性はもちろん出産することはできないが、今や「育児をしない男を父親と呼ばない」がいうまでもない時代である。
子どもという"荒ぶる自然"と関わり続ける育児は、性別問わず、僕らにとって身体とつながる契機ではないのか。ましてや父親役割という自分にとっての難題に向き合うなかで、「身体」というのはどういう意味を持つのか、そんな関心から「パパの身体論」という自分への"公案"には思い至ったのであった。

僕にとってもこの投稿は、育児の渦中にいると見えないものも、言語化して、体験を共有して、そしてコメントをもらったり先輩や同世代の人たちと一緒に考える機会になっている。いよいよ忙しくなってきた37歳。ロールシャッハ先輩に思いを馳せながら、冴えないながらも大変で楽しく、やんとな健康に踏みとどま日々を引き続き記していきたい。

ちなみに"47クラブ"、47歳で亡くなった人を調べてみたら、出てきた筆頭が織田信長で...それはそれで頭がくらくらしてくる。Life goes on. これからも人生の季節は巡る。

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