関心の中心はなにか



あの人の関心の中心はなんだろう。
この人の関心の中心はなんだろう。

私の関心の中心は言葉だ。人の心理から生まれる言動だ。
だから言葉についてずっと考えている。
その言葉が生まれる背景やバックグラウンドに興味がある。

いろんな人とチームを組み、企画をたてプロジェクトを進めるなかで、相手の関心と自分の関心を共有しておく大切さに気づかされる場面があった。最近のことだ。

私には、私なりの「そうする理由」があって、
その人には、その人なりの「そうする理由」がある。
はたからは理解しづらくても、それぞれが当人の関心に沿って生きている。

関心はそのまま、その人の分身みたいなもの。
多くのエネルギーを費やして考えたり、思考を投じてきた時間そのもの。
どんな関心も基本的には尊重されたほうがいい。
人が自分を尊重されたいと思うように、「その人の関心」も尊重されたいと思うのは自然だと思う。


互いの関心が合わなければプロジェクトやチームがうまくいかないわけではない。てんでばらばらの関心を持ち寄ったチームが不思議とうまくいく例はいくつもある。
それでも、言語化も行動化もされない不可視の部分が互いにそぐわず、どちらもこれ以上歩み寄れないと気づいたとき、組んだ手を離すのも「進展」だと思う。

その道が行き止まりなのか、分岐しているのか、それとも開けた景色へ導くのか、行ってみなければわからない。
「成果」でなくても、ハッピーエンドを描きながら進んでみた「結果」を手に入れることができる。

「なんとなく、違った」と思ったなら、そこから考えればいい。
戻っても止めても解消しても、進展している。

言葉を仕事にしていることや言葉を関心の中心に置くことと、言語化を超えた「なんとなく」を大切にすることは、私のなかでは矛盾していないみたい。

私の関心の輪っかのなかに言葉がある。
言葉と行動の目に見えるものを、言語化も行動化もされない愛がひたひた間質液みたいに浸している。


「なんとなく、違う」の「なんとなく」は、言語化を超えてその人の大切な価値観に触れている。




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