永遠はないよ、どこにもないよ。だから今なんだよ。進むか下がるかどうするか迷っていたって人生は続くから。

孤独に誇りを抱いている、と思っていた自分は、ひょっとしたら孤立することを恐れそれに対して言い訳をするためにそう思っていたのかもしれない。ひょっとして自分の周りにいた人たちからみたら明白だった? それを聞くことはない。

生きるのに理由は要らないけど、生きるのをやめる理由ができてしまいそうでおびえていたあの日々を今も思い出せる。まだかさぶたも生じていない生傷、切り傷が痛くて見る度つらい感情に支配されていた。助けてくれって誰にも言えずに1人で自室にこもってささやくような声で叫んでいた。「ごめん、ちゃんとよくなるから」って。だけどあいつもあいつもあいつもあいつも見なくなって、いなくって。消えたくなって。

それから時が経って、日常生活を送っていて時たま、人の思いを聞く、それはほとんどの場合苦悩だったりするんだけど、自分は苦もなく聞いている。人の魂にのしかかる圧力が1パスカルでも軽くなればなんだかね、嬉しく思うんだ。そうやって消えたい感傷が一つずつ浄化されていく感覚があったんだ。だけど今思うよ。苦もなく聞くそれに「ありがとう」という言葉を聞きたいって理由付けがあってもいいかなって。そしてその裏腹もあるんだ。

なぜなら、生きることは、幸福でいい。楽しんでいい。一人の時もまあ、気にすんなよって。幸福になることを恐れたりしなくていいんだ。後ろめたさも要らない。堂々と幸せになっていい。そう思う。そう伝えたい。
だから人の苦悩も難なく聞ける。それを聞くことで得られるかもしれないありがとうという言葉は、自分を軽くさせる。だけど本当は、裏腹というのは、ありがとうという言葉がなくったっていいんだと思っていること。軽くなっている人を見て、同じように自分も軽くなれるから。

それから……好きだよと発話したら同じ言葉が聞ける人たちがいる。うかうか生きてそして人を好きになって、彼らは笑っただろう、そのぶん泣きもしただろう。愛する人の重荷を軽くさせたい気持ちなんか誰もが抱えて、喜びをさらに足したいのはもっとあると思う。
時間を買えるほど自分は偉くはないし、人を愛せるチャンスは見過ごせない。ごめん、恥ずかしいから格好を付けて書いた。人を愛せるチャンスは見過ごせないって要は好きなひとができたってだけだよ。自分も笑ったりしたいんだ。重荷があるなら一緒に持ちたく軽くさせたい。喜びをさらに足したい。それでその子が笑うなら、それは自分にとって幸福なんだ。
だから自分は人を愛したい。愛されなくても愛することを恐れたくない。そうすることで発揮される愛しげな優しさは基本お一人様限定だけど、その優しさを持っているとほかの人にもやわらかな態度で接することができる。そういった自分になりたいから、愛するということから逃げたくない。

生きることは、幸福でいい。不幸に陥ってもまた戻れる。楽しんでいい。つらくなってもまた笑える。一人の時もまあ、気にすんなよって。気付いたら仲間ができてるよ。幸福になることを恐れたりしなくていいんだ、不幸せな人に申し訳なくならないでいい、むしろ助ける力が湧いてくるから。不幸になることを恐れなくていい、注意深く生きていたら幸福も見過ごさない。後ろめたくなっても生きていられる。堂々と幸せになっていい、人前でわんわん泣いたっていい。
時間を買えるほど自分は偉くない。永遠なんてない、どこにもないよ。だから今、好きな人に特別ごしらえテイラーメイドの優しさをもって接している。その人が抱えているものを理解し、自分自身がその人の苦にならないように、なんていうんだろう、正直人を愛することは下手くそなんだけどさ、へたっぴなりに、自分なりに愛せればと思う。

さあ、金色帽子を被るんだ それがあの娘に効くのなら
もしも高く跳べるなら 見事に高く跳んでやれ
きっとあの娘は叫ぶだろ
「金色帽子も ハイジャンプも すてき!」
――『グレート・ギャツビー』F・スコット・フィッツジェラルド

だけどさ、たとえ金色帽子をもっていなくても、高く飛べなくても。もしもその子が叫ばなくても、人を愛することを恐れない。見返りなんてあんまり考えられてなくて、それで構わない。自身の行動で愛する人の抱えるものが軽くなったらもう、大成功だろ。失敗してもその体験は自分を強くさせる。その上でずうずしくもいうけど、自分が例の言葉を発話して、同じ言葉が返ってきたらもう、無敵。

経過や着地点を考えずに書いたんだけど、これって恋文だな、照れくさくても遠回しに読んでもらいたいからこうなったんだろう。やっぱ下手くそだな。

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