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ADHD/ASDの治療経過からみる【ボーはおそれている】解説


アリアスター監督の狂気?


アリアスター監督の新作
「ボーは恐れている/BOAU IS AFRAID」が公開され、
多くの方の感想を目にするようになりました。
私も先日劇場で鑑賞しました。

多くの方の感想としましては
「嫌悪感」「さすがアリアスター監督」「カルト映画」
「よくわからなかった」「懲役三時間」
などと話されています。

しかし、
私はADHD/ASDとそれに伴う二次障害のうつ病の当事者かつ
精神看護を学んだ内容から
「ああこれは監督自身の治療経過の反映なんだな」との感覚を覚えました。
つまり、嫌悪感でも狂気でもなく、ひとりの人の発達障害との向き合い方の過程なのだな、と安堵にも似た感覚を得ることができました。
その内容について書いていきます。

※本記事は多大なネタバレを含みます。鑑賞後に気持ちを共有しましょう!

あらすじ


公式より

あらすじをなかなかうまく表現できないため公式より拝借しました。
実際にこれはうまく話しの流れを説明できない内容かと思います。

カウンセリングと箱庭療法

カウンセリングのシーンはとてもうまいやり方だなと思いました。
セラピストは劇中で「どう感じたか?」に重きを置いています。
それが世間的にどうか、や誰かにどう思われるかなどを取っ払って
ただ「どう感じたか?」を問いかけてきます。
また、セラピストのゆっくりとした話し方も象徴的でした。

精神科治療のひとつに「箱庭療法」というのがあります。
1929年からある古い治療で、世界的に用いられています。
ボーのそばにあったのはその箱庭療法に使用される器具でした。
箱庭療法とは、患者が自発的に砂の中に入ったミニチュアを置き、物語を作ったり眺めたりするものです。

箱庭療法の例

逃れられない【家族】や【母】

最初のシーンはぼやけた世界と心音から始まります。
取り乱した母と、呆然とする子。
実際にはありえませんが、医療者が平手打ちすることで子供は泣き始めます。

新生児にとって、泣くことは呼吸をすることです。
大人にとってはどうでしょうか?

家族というのは、
というよりも他者と深くかかわるというのは
誰にも避けられないことであり、とても苦しいことです

特にもこのあたりに自閉症スペクトラム障害の印象が強く残りました。


どうしようもない不安感と最悪な状況

劇中では次々と嫌なことが起こります。

表現とその代償


ビルから飛び降り自殺をしようとする人を階下にいる人たちが野次を飛ばしながらスマホを向けています。
(このあたりも表現者として活動したいながらも批判を多く受けることなどを表しているように感じました。)
その後実際にその人は飛び降りてしまうのですがその死体はずっと放置されています。

夢、罪業妄想

サンタの恰好をした人が追ってきます。
夢を見たはずなのにそれが恐怖の根源となってしまいます。

乞食も追ってきます。
うつ病の中には罪業妄想というのがあり、
ある程度生活に困ることがなくても
「お金が無くなってひもじい思いをするのではないか」
という妄想に取りつかれてしまう方も多いです。

虫の幻覚

また、毒蜘蛛が自宅アパートにいるというものでは、
一瞬蜘蛛がいるのを見せてボー本人には見えないというのが
監督の見せ方として舌を巻く部分でした。

いないけど いるかもしれない
そうならないんだろうけど そうなるかもしれない
というのは恐怖の根源です。

また、アルコールの多飲や依存状態になると虫の幻覚を見ることが知られています。
また、ADHDとむずむず脚症候群とは相関があるとされており、
私の体験としては、自分の両足の先に、蛆がわいておりその蠅の幼虫たちが自分の肉を溶かしながら食べている音が聞こえるような幻覚を見ていた時期がありました。

睡眠障害、不眠と気絶の繰り返し

部屋の外では常に叫び声があり、ボーは眠ることができません。
ドアの下の隙間から廊下の光が漏れ出し、扉の外に人がいるという表現は
アリアスター監督の最初の作品からある表現で、ここでも出てきたか~とうれしくなりました。

眠れぬ夜を過ごしたボーですが、一度眠ってしまうと一瞬にして時間が過ぎ寝坊してしまいます。
この不眠と気絶の繰り返しもADHD当事者として共感するところでした。

ADHDと睡眠障害も相関があるとされており、ナルコレプシーも類似の疾患であるとされています。

強い焦燥感

ADHDは、平たくいうと「感度30000倍」です。
外界の様々な刺激に対し一つ一つ神経を使用しているため、
ケンジョウビト(定型発達)にとってはノイズキャンセリングをして
過ごすことができることでも、
ADHDにとっては処理する情報が多すぎてフリーズをよく起こします。

遅刻が怖い、忘れ物が怖い、体性感覚があいまいなためものによくぶつかる、必要なもの(ここではフロス)がないと余計に焦ってしまう
すべて焦燥感につながってしまいます。

ADHDたる自分には、
どうしようもないことが次々に起きて、その繰り返しです
ミスをした際に「どうしたら防げるの?」って言われても、
その時に自分がそうしてしまったのでこうなってしまいました。
としかいうことができません。
当事者としてこのくるしみがわかっていても、
しかし他人から見ると果てしなく滑稽で、
劇場で乾いた笑いを浮かべながら涙をだらだらこぼしていました。

お母さんヒス構文

母に飛行機に乗り遅れた旨を電話しますが、
この時も結論から話すことができずもごもごしています。わかります。
そして続くお母さんヒス構文…

「毒親」「お母さんヒス構文」「チー牛」「発達障害」など、
私たちのくるしみはどんどん名前のつけられた被害になっていきます。
それは全貌の見えなかったくるしみを把握する手立てにもなりますが、
それによりよりスティグマが加速し、分断は加速していきます

必ず水と一緒に飲めと言われた薬を飲むときは必ず水は出ず、
カードは止められているし、
(ここはADHDの後回し癖であるあるでした)
通報するぞと言われより焦燥感が強くなってしまう

ここのシーンこれ

「ちゃんとしなさい」とよく言われます
でも、あらゆる焦燥のなかで当事者たちは苦しんでいます
「だって怖いんだよ、だって苦しいんだよ、それがいくら法に触れていようといくら倫理的におかしくても、どうしてわかってくれないの!」
という気持ちがありありと伝わってきました

発達障害の被害妄想

と、最悪な状況は続くわけですが、
こういう治安が終わっているところが存在するわけではなく、
発達当事者としては同じ世界でもこう見えているという表現なのかなと思いました。
きっと世界はこんなにもおそろしくないはずなんだけど、
あらゆるつまづきの中で、勝手にこっちとしては被害的になっちゃうというのもわかりました。

これは当事者としても支援するときにも重要な視点で、
発達障害の二次障害として
「自分はなんて価値のない人間なんだ」と自責に行くパターンと
「なんで周りはわかってくれないんだ」と他責に行くパターンと
どちらも発生しうることです。

そのため、自分が当事者の場合は
ほかの人にとってこの行動はどうだったのかな?
と自責にも他責にもかたよらずに顧みる機会を持ってほしいですし、
周囲に発達障害の人がいる場合には、
自責的になっていないか、他責でこちらに被害が及ばないか
を考えてみてほしいところです。

最悪な状況が続く

知らない人たちが自分の唯一の安寧の地の自室を崩壊させます。
ここは映画の表現がとてもうまいと感じました。
ミキサーが無音のなかなり続けていること、
焦げてしまったその香りまでこちらに伝わるようです。
エレベーターが開くシーンもとても映画の表現としてよいなと思いました。おなじ話のあらすじでも、小説ならどうやって書けばいいんだろう?
と考えていました。

ずっと無理過ぎることばっかりです。
リラックスしようと風呂に入ろうとすると水はあふれるし、
タイルの汚さも目立ちます。
(このシーンで私も以前入居していた部屋でつまりを取ろうとピーピースルーを使用したのですが、つまりのほうが勝ってしまい部屋を水浸しにして畳をカビさせてしまい12万円支払いました)(また、別の部屋では風呂にはかろうじて入ることができたのですが掃除をすることができずいつも自分が立つ部分以外水あかがこびりつきトリックアートのようになっていました)

すべてのことが自分のせいだと思います。
母が死んだのも自分が行かなかったから、と。
焦りから全裸で街に出ちゃったし殺人鬼いるしマリア像も壊れちゃったしどうしたらいいんですかこんなん…というシーンが続きます。

中年男性でもママはほしいだろ

中年男性でも誰でもママほしいだろ、につきます。
発達障害当事者としては
毎日知らん人に刺されているような殺されているような気分です。

わからないからです
どうして怒っているのか、どうしてその行動や考えが当たり前なのか
どうしてそれが優先順位が高いとされているのか

そして相手にさとされて、すべてが後手後手で遅いと怒られ、
なんとかしなきゃって思うのに何事もうまくいかなすぎて
とても共感できる部分でした。

監督もしかして閉鎖病棟入院してた???

グレースは精神科ナースの感じでしたね…
「治ってから帰りましょう」は自分もよく使う言葉で、
まああの状態だったらそう言うよな、と。

ネイティブじゃないからわからないですが
ボーの話し方はかなり子供っぽい喋り方なんだろうなと思いました。
簡単な単語の英語の感じがしました。

暴れる他の患者への対応にドン引きするっていうのもあるあるです

入院するにあたり、
衣食住の不安もなく、やさしくされて、心休ませて落ち着くんだけど
でも、くるしんでいたときのほうが生きていたかも、って思って逃げ出すんだろうなと思いました

年頃の娘のパソコンみちゃだめでしょって思いますし、
悪いことはググったら絶対悪いこと出てくるんだから

絶対に症状をググるな(二回目

ちょっと謎だったのが、
なんで金持ちの息子なのにこんな感じなんだろうな?っていうところですかね
とはいえ賃貸借りれて携帯止まってないから金はあるのか?

おじさん特有の、JKが怖い感じめちゃわかるなって思いました…
笑われて、真似されて 
カースト上の若い女特有の笑い方キツすぎる…助けてくれってなりました
でも、彼女たちにとってはおそらくこちらがキモイのが加害なんだろうな…
とも思いました…

船の上からかつての自分を見る

トレーラーにもあるこのシーンですね


バッドトリップしたボーは船上で、母を通してかつての自分を見ます。
プールに浮いた死人からのカメラワークは新しすぎてちょっと笑いました。
チョコのくだりえっちすぎですし、カウントダウンはAMSR射精管理とかされてるかんじ?と笑いました。

強火の女が出てくるの高ポイントです

ロールプレイング的治療

なんやかんやで逃げるボーですが、村にたどり着きます
カルト村大好きか?
監督自身は宗教に救われているのか、それともそれも織り込み済なのか
どんな作品でも一人で作ることはできません
一つの作品をみんなで作っているという感触がありました。

勝手に訳が分からない状態で巻き込まれていくのが人生だなとも感じました。

そして村で行われていた劇ですが、
あれはロールプレイを通して自身におこったことを他者の視点で見る
あるいは新しい行動の定着に使用される
認知行動療法およびソーシャルスキルストレーニングだなと思いました。


画面構成の不思議さ

道を選んだら前進か後退か、
回る感じで季節が変わる演出、
天使の顔はおそろしく無表情で

オオカミの家の作者様がかかわっているとのことで
より不思議な感覚が増強されていました。

劇中の内容について

成功者バイアスではあるのですが、結局は進まなければ何も得られないということを示しているのかなと私は感じました。

劇中の妻の顔があいまいなのがいいなと思いました。
大事な大事な最愛の人なのに顔は思い出せない。
これはこの後のシーンにも絡んできます。

夢のようなあいまいな世界で、
誰かが自分のことを悪者にしたりする感覚。

私も常にメモを取ったり考えをまとめたりしているので、
増えていくだけのログの部分は永遠にも感じました。

「自分の不運ではなく自分の罪を見るべきだ」
というのは、他責をやめ物事をフラットに見て
その中で自分が何をできるのか見つめなければいけないという
諭す言葉にも思えました。

人生にナレーションはありません
振り返る中であの時はこういうことだったのか、と
自分を納得させることしかできないのです。

遺伝、血のつながりというテーマ

母との思い出の中で、自分の父はもう死んでしまったと告げられます。
くるくると回るライトに照らされた母の顔はくるくると顔色を変えていきます。
「身ごもった瞬間、死んでしまったのよ」
「私の中で果てた瞬間に、命も果ててしまったの」(by finished inside finishing)といったセリフがあり、
空恐ろしくなってしまいました。
年頃の息子が実母に言われたくないランキング上位では?
これはこの後の生殖への嫌悪感につながります。

精神疾患もまた遺伝することが多いとわかっています。
そもそも子供をもつことを選択するかどうか、
また、子供への自責の念は深くなっていくでしょう。

途中で「いくらやっても結果が出るのは数十年後だ!」というセリフがあrましたが
全ADHDがそれな!!と口をそろえることでしょう

観劇の最中に父らしき人に出会います。
とても紳士的な素敵な方です
他人が話していることがとおくとおくに聞こえる感覚がわかります
しかしこれはよく父を知らないからこその
神格化のような部類に入るのではないでしょうか

ネットフリックスで話題となったファーストラブ/初恋の
井浦新が演じた白いスーツの父も
一緒に暮らさないからこその神格化があったのかなと思いました。

母の葬儀

ようやくボーは母の家にたどり着きます。
ここでもボンネットにさかさまの風景が映り、
ミッドサマーでも使用されたさかさまになることで状況が変化していく
ということを表していました。

ボーは葬式がすべて終わった後の自宅で、葬式の内容を録音したテープを聞きます。
ボーが豪邸についたシーンで、
果たしてこの人はここが実家なのかな?と思いました。
この家でこの人がどうやって暮らしていたのか私たちにはわかりません。
少年の日のボーと現在の中年のボーのつながりがなかなかわかりません。

これは自分たちも同様で、
誰も、わたしがどう生きてきたか知らない
自分しか、生まれてから死ぬまでを見ることができません。

弔辞ってやっぱりちょっとジョーク入ったほうがいいんですね

発達障害の相貌失認

相貌失認とは
人の顔が覚えられない、わからないという症状です。
広義的には顔の表情や感情を読み取ることが難しい、他人の見分けはつくが認識に時間がかかるなども含みます。
人口の2%が該当するといわれています。
また、これは発達障害と相関があるといわれています。

首がないまま安置されている遺体を見て、
ボーは母の顔を思い出せないことにハッとしたのではないでしょうか

発達障害の時間感覚のずれ

当事者としては一つの物事に集中することで思いがけず時間がたっていることがあると思います。
過ごす時間も、わすれていく感覚も独自のものではないでしょうか

そして、母が健康食品およびそういった器具の会社であり
幼いボーをモデルに事業をしていたことがわかります。
冒頭の広告もこの会社のものでした。
アパートで使用していた電子レンジや食品も自社製品でした。
また、その中に発達障害に効く!のような文言もありました。
(発達障害は先天的なものなので食事やサプリメントでは治りません)
しかし、母はボーのために何かしてあげたいという
気持ちで事業を大きくしていったのでしょう
誰かのために、が一番の原動力なんだなあと思いました。

初恋の人との再会

船の上で出会った初恋の女性が母の会社に入社しており、
ボーの母の家にやってきます。
女はすぐに永遠を反故にするので結婚してるのかな?と思ったのですが
そのまま順当に致すに至ります(ここのあたりモザイクが多いです)

母の遺産のジュエリー漁ってるのとか
クソデカスクリーンに映る解像度の高いコンドームとか
おもしろポイントも多いです

初めて性行為をしたボーは、
母が言っていた父の最後のことがトラウマになっており
射精したいけど死にたくない、遺伝するって怖い
という快楽と生殖の恐怖を感じています
そして射精した際に初恋の女性は死んでしまいます。

そして死んだと思っていた母は生きており、
あの遺体は乳母であったことがわかります。

発達障害の加害性?

お母さんヒス構文が100回出てくるので、
ママはわかっている、なにもかもね 
とそういうあいまいな言い方で責任を押し付けてきます。

母はお母さんヒス構文で激詰めしてきますが、
ボーもまた結局はその他者のことをわからないということや、
冒頭の失敗続きであることなどで
わざとではないにしても生きているだけで加害しているともいえる
のかなと思います。

私は様々なコミュニティでいじめにあってきましたが、
それは自分の空気の読めない言動や、
どうしようもない失敗が
彼女たちにとって目障りで、加害されているように
感じたから仲間外れにしたり直接的間接的に悪口を言ったりされたのだろうなと思っています。
(すべてのいじめがこうではないと思います)

母 そして一人の人間

そして母はボーに対する呪詛を続けます。
これはあらゆる母と子の物語にいえるものですが、
自分が子供であるときには基本的には親としてしかの側面しか
見ることができませんが、
親自身もまた一人の人間でありかつての子供であり
その子の親になるというのは初めての出来事であるということです。
母もまた祖母に虐待まがいのことをされていたとほのめかすシーンもありました。

条件付きの愛情

母はボーに対し、条件付きの愛情についても話しています。
「絞りだした愛をすべて与えてやったのに!」
「あなたのために苦悩して、その報いは苦しみと憎しみなのよ」
これ思っても言っちゃだめでしょ~って思ってました。

真実を知ることは傷つくことかもしれない

真実を知ることが傷つくことかもしれない、というのは
あらゆる創作のなかでよくあるテーマで、
父は死んだのではなく屋根裏にいると告げられます。
そしてそこにいたのは信じがたい光景です。

もちろん、自分が生まれてくるためには
両親の生殖が不可欠ではあるのですが、
その汚い生殖の果に自分があることの恐怖や嫌悪感があの怪物の正体なのではないかと思います。

そして、ボーは親殺しをして旅立ちます。
親殺しもまた創作における一つのテーマでしょう
湖面が月を反射していてとても美しいです。


審判

小さな船をこぎだしたボーは進んだかに見えましたが、
スタジアムのようなところで母と検察のような人から今までの罪の審判を受けます。

これも飛び降りる人にスマホを向けていた人と同様に、
表現することで大衆に責められている感覚なのかなと思いました。
助かりたくて映画にしているのに、
衆目にさらされるのは自ら望んだことではありますが、
その恐ろしさも表現しているように感じます。

自分の罪を説明されるのがつらすぎました。
ADHDはたびたび「どうしてそんなことしたの?!」と詰められることがあります。
しかし自分としてはどうしてそうしたのかわからないのに
こんな結果になっておりそれの原因探求や対策を立てられない
という苦しみがあります。
全部言い訳じゃないかと言われて、ではどうしたらよかったのか…
という状況がかなり苦しかったです…
弁護士死んだのも笑っちゃいました、言い訳ばかりの人間を擁護してくれる人はいませんので

「罰を受けるのが恐ろしくて逃げてきた」
というのは当てはまるのではないでしょうか。
では、ボーのように生きているだけで加害するような人間は
どのように償えばいいんでしょうか?
どんな罰を受ければいいんでしょうか?
死ねばいいですか、死んだって償えませんか

監督はこの答えとして、
創作を続けながらも劇中で罪を償って死ぬ
という手法をとっているのが本当に偉いと思います。

ちゃんと生きて、作品は撮り続けてくれる
それは自己救済であり、私のような人間にも響くでしょう。
内容がわけわかんなかった?それでいいんです。
意味などありませんから。

まとめ

考察とかいうのは嫌いです

ということで、この作品は監督にとっての救済の物語であり、ADHDの困難さやASDの他者とのかかわり方や親となること、遺伝などあらゆることを詰め込んだ内容であったと思います。

私は考察という言葉は嫌いです。
創作において作者がどんな意図で書いたかというのは
存在するとして、その作品が自分の生きてきた、経験してきたものごとの物差しでどのように見えたか、どう響いたのか、その反射のほうが大事だと思うからです。

ボーはおそれているという作品を私という鏡で反射したとき、
このような像が結ばれました。
ほかの人にとってはまた別の像が結ばれることでしょう。

したがって、もし作品の感想を私にいただける際には、
あなた自身がどう感じたか、それを教えていただけると幸いです。

ファスト映画との決別

昨今の作品はあらすじがうまく説明できないものが多く、
コスパタイパなどと言われるまがいもののためのファスト映画との決別となっている感覚がありました。
この流れが続いていくとうれしいなと思います






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