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「平和をつくる工場」という考えにモダンな思想を感じました─「大谷幸夫氏が述懐する丹下健三」後半

この度、『丹下健三』の再刷が決定しました。
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再刷への応援(先行申し込み)をしてくださったお客様には優先的にご案内する予定ですが、この度、一般購入申し込みの受付も行うこととなりました。
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再刷決定を記念しまして、『丹下健三』執筆のベースとなった『新建築』掲載の藤森照信氏によるインタビューシリーズ「戦後モダニズム建築の軌跡」を再録します。

これまでの連載はこちら



目次
●広島平和会館(ピースセンター)
●上野動物園水族館
●名古屋放送会館



広島平和会館(ピースセンター)

─広島平和会館(『新建築』1956年6月号)では,コンペの段階からかかわられていたのですか.

大谷 そうです.


─丹下さんたちが,コンペで設計者を決めるように働きかけたのでしょうか.

大谷 それはわかりませんが,記念館の企画,内容について働きかけていたようです.最初に広島市が考えていた企画は,関東大震災のときの慰霊碑のようなものを広島にも建てようというもののようでした.それに対して意見をいって,今の内容になったと聞いています.


─大きなとらえ方は?

大谷 最初は中心になる広場と軸を考えました.


─丹下案のみが原爆ドームを意識して,わかっているほかの応募案はこれを完全に無視していますね.今から考えると意外ですが,原爆ドームを意識するというのは珍しい考え方だったようですね.

大谷 最初のドローイングは20km四方程度の小さなもので,これを丹下さんから見せられて,横の軸(平和大通り)と縦の軸(ドームを貫く軸)の直行の素晴らしさに「一」と「十」をかけて,これで「1等ですね」といったら,丹下さんは微笑まれました.
コンペに応募するときは,1等の資格のあるものを提出すのが僕らの仕事で,1等に選ぶかどうかは審査員の仕事だと考えていました.


─広島市役所には「平和都市建設構想」という資料が残っています.どうもこれは文章の調子からして,丹下さんと浅田さんがつくったのではないかと思われます.この中でアーチについて「鐘が5つつき,ライトアップされ瀬戸内海から見える」と書かれています.

大谷 広島市で作成した都市計画案には海へのビスタを考慮した斜めの道があります.海への視点,海からの視点という発想は,当時,誰もが意識していたことだと思います.コンペ案の平和大通りは丹下さんのオリジナルです.


─慰霊をするのか,平和を祈念するのか,ということはこの計画にとってたいへん重要な問題です.

大谷 慰霊では関東大震災のときの東京とまったく同じで,後ろ向きの思いです.そうではなく未来へ向けた平和を強調したかった.丹下さんの「平和をつくる工場」という考え,それは何てモダンな思想なんだろうと僕は思いました.


─記念碑ということに関しては,丹下さんの案は広場が主役で大記念碑をつくらない.それに対してイサム・ノグチさんの慰霊碑は大記念碑ですね.

大谷 イサムさんの案は死者の魂そのものの表現であり,丹下さんは魂をそっと迎え,優しく覆う,そのような感じもありました.


─イサムさんはどのようなかたちでこの仕事とかかわるようになったのですか?

大谷 丹下さんがイサムさんを呼んだのです.丹下さんはきっと,建築家の仕事は魂そのものを造形することではない,それは彫刻家の仕事である,と考えていたのではないでしょうか.
イサムさんの彫刻をはじめて見たとき,それがきわめて日本的であることにびっくりしました.当時は敗戦ということもあって,西欧=自由,民主主義ということで,日本らしさを卑下するような風潮があったのです.イサムさんはそのような時代の空気をものともせず,自分の中にある日本を素直に表現しており,それに対して潔さを感じました.


─イサムさんは素晴らしい彫刻作品をつくったと思っています.しかしそれを岸田さんは没にしてしまいました.アメリカ人につくらせるわけにはいかないと....イサムさんは当然怒ったでしょうね.

大谷 同じ部屋で作業していましてね,端からはとうてい見ていられない,何ともやりきれない感じがしました.


─イサム案が実現すると丹下さんの基本理念が崩れてしまいます.空虚なシンボルとしての広場ではなく実体的になる.しかもそこからはドームが見えない.結局,丹下さんが今の鞍形をつくった.
イサムさんが橋を手がけられていますが,これは関係者に丹下さんが働きかけたのですか.

大谷 そうだと思いますが,詳しいことはわかりません.ただ実際に図面の手伝いは僕です.スケッチから図面を起こし,土木の人に配筋のチェックもしてもらいました.
最初の図面などは非常に小さいものです.市の土木の人も積極的で好意的でした.欄干などちょっと低いかと思いましたが,このままやろう,大丈夫だからといってくれました.


─イサムさんのモニュメントが結局中止になって,丹下さんとイサムさんの関係に変化はありましたか.

大谷 中止になったことで変わったということは別にありません.しかし,当初のRCを石に変えたとき,石なら僕の案にしてくれたらよかったのにとおっしゃったようです.


─実現案の慰霊碑の埴輪の感じはどこから発想されたのでしょうか.

大谷 埴輪の感じとか,茅葺き屋根とか,日本的であると当時はいわれていました.


─大アーチがなくなったのは経済的理由と考えてよいのでしょうか.

大谷 わかりません.全体の配置計画に関しては,原理と実際的な問題をどう整合させるかということも大きな課題でした.この敷地には,これを斜めに横切る細い生活道路がありまして,これはあることで針葉樹の配置がどうにも決まらない.結局は,全体を性格づける大きな通路と細道をまったく別の原理で無関係に描いて,合成させるという決断をしまして,解決しました.


─建物のデザインについてはいかがですか.

大谷 コンペの段階で,建物のデザインまで緻密に詰めてはいませんでした.インターナショナルスタイルで,ピロティがあるものというくらいです.図面にある縦ルーバーは構造材でしょう.スパンがとんでいますから....


─コンクリートを打つということは未経験だったのではないですか.

大谷 コンクリートを打ったことがある人がいないので,前川事務所の,道明さん,崎谷さん,大沢さんに手伝ってもらいました.道明さんには図面だけではなく,実際に現場監理もお願いしています.道明さんが現場の写真を送ってくれるのですが,その写真を見てもまるっきりわからないところがある.一体なんだろうと....型枠でした.知識としては知っていたのですが,見たことはありませんでした.実際にコンクリート打ちの日には現場に行って実際にコンクリートを突きました.サッシュの原寸図がきたときも,わからなかったな.丹下さん自身も,コンクリートで建築をつくるのははじめてだったのだと思います.


─前川事務所の技術というよりもレーモンド事務所の技術が入ったのですね.

大谷 コンクリート打放しは,レーモンドさんの作品しか知りませんでした.いろいろな仕上げ材を検討したのですが,建築を組み立てる真実の材料ということではコンクリートしかありません.石を貼るといっても,どこまで貼るかという問題が起きてきます.


─展示館右手の本館の手すりのデザインで,大谷先生はたいへん苦労したという話を聞いたことがあるのですが....

大谷 デザインというよりもプロポーションに関してたいへん苦労しました.和風,特に桂離宮を念頭に置いていました.
丹下さんは桂離宮をよく見ていたようです.だからといって桂離宮を参考にしろとか,実際に見に行けなどとはけっしていいませんでした.丹下さんのスケッチ通りにやっていったというよりも,各自がデッサンを積み重ねていった結果,桂離宮のあの腰高のプロポーションに近づいていったといったほうがよいかもしれません.
平和会館本館の,手すりを含めたエレベーションはなんとかうまくいったのではないかと思っています.ただ何層も重ねるとプロポーションは難しくなります.力強さ,鮮烈さがなくなります.2層は大丈夫ですが,3層になるとたいへん難しい.
東京都庁舎のときには,テラスをキャンティレバーで出しているので,柱が垂直に通る感じがなくなっています.それが不満で,別の選択肢があるのではないかと,実際に採用されたものとは別にもうひとつデッサンしていました.そのときの試みのひとつが,金沢工業大学(『新建築』1976年12月号,1982年10月号)です.ここではプロポーションの調整を,手すりの腰でやっています.

丹下研究室では,基本設計の段階で担当者がいても,それぞれが自分の案を描いて議論していました.そして僕の案は,他の案をどう受け止め,どう連携するか,全体の体系の中でどう働くかという点でしばしば弱いものでした.ドラマがないのです.その点,全体を体系化するという意味において丹下さんは特に優れていると思いました.


─公会堂に関しては基本設計だけだったのですか.

大谷 予算がつきませんで,地元の財界の基金でやることになったのです.ただこれには不透明な部分がありまして,ずいぶん抵抗したのですが,残念ながら手遅れでした.丹下さんは潔癖な方で,決して裏のことはやらない人でした.



上野動物園水族館

─ピースセンターの後,いくつかの計画が続くのですが,ひとつは上野の水族館という,実現はしませんでしたが,なかなかおもしろい計画がある.この仕事は東京都の依頼だったのですか.

大谷 直接,園長の古賀さんと,その次の園長になられた林さんのふたりが一緒にみえたはずです.


─この計画のテーマが何であったか,ご記憶ありますか.

大谷 この当時は,特に造形は構造を手がかりにして考えていました.広島の本館の場合は,木造的な柱梁というラーメン構造を手がかりにしたけれども,この場合はシェル構造という形式で,ひとつの建築スタイルをつくり出そうとした.丹下先生がどう思われてたかはわかりませんが,ここは水族館でしたので,僕はシェルから水の波紋,波を連想していました.「構造によって造形を導き,内容によってイメージを表現する」ということでしょうか.

当時は丹下先生も実現したものがそれほどありませんでしたので,構造方式や施工に非常に関心をもっていて,よく議論をしたものです.水族館は,それほど複雑なプランではなかったこともあって,あまり機能的な問題での議論はありませんでした.


─非常におもしろい曲線で,単純なシェルではなくて,増幅してくるようなかたちですね.これはやはり波のイメージですか.

大谷 そうだと思います.


─平面に台形が出てきますが,この頃の丹下研究室の計画には,たとえば広島もそうですが,台形がよく出てきますが.

大谷 というか,この場合は正面にやや象徴的な扉をつくって,訪れる人を平面計画上,受け止めるように考えました.


─このルーバーですけれど,広島の陳列館ではあとからルーバーに変えていますけれども,ここでは最初からルーバーがついていますが,この当時の実現例としては,コルビュジェなども,ルーバーを論じていたけれども実現はしていませんでしたか.

大谷 J.L.セルトがやってなかったかな?これは西日とか方位の問題があったはずです.


─広島の陳列館もプラン全体が台形の組合せになっていますし,広島の記念聖堂の計画案のプランも台形になっています.おそらく,直方体を使わない,基本的な平面を台形でおさえていくということを,この時期,せっせとやっておられる.コルビュジェは,ソビエトパレスを台形平面で納めている.基本的な平面計画で,そういうことを論じられたご記憶はありますか.台形というのはうまいなと思うのですが....

大谷 そういわれてみても,そんなにいろいろ議論したことはなかったと思います.


─これが実現しなかった理由はご記憶にありますか.

大谷 そこは聞きませんでした.都の予算が取れなかったか,用地が認められなかったのではないでしょうか.


─これは仕上げは打放しだったのでしょうか?

大谷 そうだったと思いますが,特に仕上げは考えていなかったのではないでしょうか.


─シェルの部分は打放しのようですね.あっ,図面に描いてありますね.壁の部分は石を貼ると,梁の部分はテラゾー.シェルは打放しです.

大谷 シェルに仕上げすることで生じる荷重を嫌ったのでしょう.


─となると,3つのプロジェクトすべて石を貼ることになりますが,なぜ石を貼るのか,という議論はあったのでしょうか.

大谷 石を貼ることが絶対的に大事なんだというふうには考えていなかったと思います.というか,当時はまだ確信をもてないわけです.柱,梁,貫,長押など,まさに必要な材で空間を組み立てている木造の場合と同じくらい,確かな材料で建築をつくるまでには建築生産は回復していませんでした.シェルの屋根は,これはコンクリートでいけると思いましたが,しかし壁面については,石が本当によいのかよくわからなかった.僕はそういうふうに理解したのです.ですから,陳列館の場合も2階に石を貼る予定が,予算がないという現実的な理由で中止になっています.しかし考え方として,石を貼ることが絶対だとしたら,あくまで押し通したはずです.


─それと,貼ってない段階でどんどん発表してますからね.むしろそれが評価されたところがあって,あれが石を貼ってあったら何といわれたかわからない.だから,打放しへの確信ほどの,ほかの仕上げに対する確信はまだなかったということですね.

大谷 それにはまだ事例が少なかった.経験がなかったということでしょうね.コンクリートに対しても,いろいろ欠陥はあるけれども,何も仕上げをしないですめばそれがいちばんいいんだと,今だったら僕は確信をもっていえますけどね.ただ,建築ではコンクリートを薄く打ったり細かく打ったりするから,質自体は悪い,だから嫌われてしまう.


─そうすると,打放し以外の材料についてはまだ確信がなかった.確信があったのは打放しだと.

大谷 確信をもったというと,広島の本館ですね.あのときです.あれは打放ししかない.


─(水族館の図面を見ると)ここが石貼りのコンクリート,フレームがコンクリート.

大谷 石は本来厚い石を積んで壁面を築いているのだから,それなりの力感,素材感があって壁として理解できる.しかし,ぺらぺらな物を貼っても何をいっているのかわからない.窓がなくて壁面だけならまだよいけれど,石で本来ならこんな格好がもつわけがない.

余談ですが,古賀さんという人はよい人でした.その下についていた林さんもとても優しい人でした.動物に接していると,人間はこんなにも素直で優しくなるのかなと思いました.



名古屋放送会館

─さてこの後,コンペでは,名古屋放送会館(『新建築』1955年6月号掲載),神奈川県立図書館・音楽堂,外務省庁舎と続き,東京都庁舎で勝つのですが,まずは名古屋放送会館です.ここでは,どういうことがテーマとなったのですか.前におっしゃられた広島の本館の外壁の構成を2層でやるということと関係があるのですか.

大谷 これは中庭を含んでいます.オフィスビルの丸ビルタイプは,古いプランタイプといわれていました.しかしあれは高層の場合で中庭が無機的な空間になっていることが問題です.その点,低層の場合は中庭が生きるわけです.古いタイプとされていた中庭型プランを近代的につくり直そうという意識はありました.


─古いタイプの中庭型を新しく見せるためにはどのような工夫があったのですか.

大谷 何が古いのか,何が克服されるべきことなのか,ということを考えました.


─それに対してはどのような結論が?

大谷 いや,それよりはその後,都市的な物をやるようになって,中庭型のほうが都市の建築として原形なのだということに気がつきました.つまり,古いといういい方は間違いで,発生の経緯からして初源的であるということです.


─そういう意味で,これは最初の取り組みであると....

大谷 この段階では意識していませんでした.これはしかし,プランニングをやった順序としては,広島の平和記念館本館のほうがこの名古屋より先です.2層で本館をデザインし,これでひとつの典型をつくり,それを高層化してどう展開するかを名古屋の課題として意識していました.本館の場合は外部空間と中の流動化がテーマでしたが,ここでは,プランを納めることのほうが先で,中庭が本当に生きるレベルにはいっていません.


─その後,中庭のテーマは追求していかれましたか.

大谷 香川県庁舎の場合,当初は,道路から少しひっこんだところに高層棟があって,その向こうに平屋の議場棟がありました.それを「迎えに出ろ」ということで,会議棟を道路に面した位置に配置したのです.そのときに少し中庭的性格が出てきました.
デザインのモチーフは広島の平和記念館本館で追求したものをもっと発展させようという指向があったのです.しかし,いきなり多層化は難しく,2〜3層までに押さえようとしました.しかし,機械的に繰り返してしまうとつまらない表情になります.名古屋放送会館では,結局,土壇場で,1・2階をひとつにして,2層に見せることにしてまとめたのです.
(なお,このインタビューは1997年10月14日と10月22日の両日,東京・代々木の大谷研究室で行われた.『新建築』1998年1月号掲載)


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