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橋で祈る1◇ばかにしないでと、だれかに

連載小説『橋で祈る ~夜の底を流れるもの~』第1話

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 橋を渡ってみようと乃々花(ののか)は思った。
 パン屋のバイトの行き帰りに、いつも目にしていた橋だ。今日まで渡ったことはなく、渡る用事もないというのに、なぜだか足が吸い寄せられた。
 歩道をそれ、橋へと続く小さな公園に、頼りない足取りで進んでいく。横手には神社があり、三月でも深緑の衣を着こんでそそり立つ針葉樹のかげから、幼い子どものはしゃぐ声と、それを追い、もう夕方だからと帰宅を促す母親の声が響いてくる。
 この町には、居場所がない。
 いや、この世界のどこにも、自分の居場所なんてないんじゃないか――追い立てられる気持ちで乃々花は橋へ進んだ。

 空が大きく開けていた。
 橋の上から見渡せる河川敷の上に、レモン色の夕映えが圧倒的なスケールで広がっている。沼津の町に、こんな景色があるなんて知らなかった。
 目の前を悠々と流れていく大河は、市街地を二分して駿河湾にそそいでいる狩野川だ。
 河口が近いせいもあり、このあたりの川幅は舟が行き交えるほどゆったりしている。海の一部が陸に食いこんでいると言ってもいいくらいで、上に広がる空は、とにかく大きい。
 川岸はきれいに整備された階段堤になっており、犬を散歩させている人や、下校途中の学生たちが、思い思いにくつろいでいる。大きな空と、のどかな様子が一望できる、橋からの眺めはなかなかだった。
 これまでこの町は、さびれているとは言わないけれど、これといって特徴のない地方都市だと思っていた。
 それなのに、ぱっとしないレストランでまったく期待せずに頼んだオムライスが、とろふわ卵の絶品だったかのような意外さである。
 オムライス――そこから、今朝の卵事件を思い出し、乃々花はため息をついた。

 市役所とパン屋と自宅は、川のこちら側にある。沼津駅は向こう側だ。駅前に出るときはこれまでバスを使っていたから、歩行者と自転車専用に設けられたこの橋を渡ったことは、一度もなかった。
 車は通れないのに、ずいぶんと大きな橋である。目抜き通りの歩行者天国でも行くような、ちょっとした優越感を覚えるくらいに。
 向こうから、カチッとしたスーツ姿の若い女が、色気のないブリーフケースを抱えて闊歩してきた。
 乃々花はとっさに横を向く。欄干にもたれ、川面に視線を落とした。
 一年前までは自分もいた世界、もう取り戻せないキャリアの世界……。わり切れなさに、胸が詰まった。
 東京都内のFM局で、男と張り合いながらディレクターの仕事をしていた二十代の日々が遠い昔に感じられる。かといって、三十一歳になったいま、あのころよりも大人になったかといえば、そんなことは決してない。

 ふぬけだ。
 なにやってんだ私。
 こんなところで、見ず知らずのうんと若いぺーぺーの働く女子を思わず避けて、下を向いているなんて。
 局を辞してから手入れもせずに伸びた髪が、川面を走ってくる風に吹き上げられて頬や首にまとわりつく。川上から、どこかの学校のボート部が、きらめく水面に四人乗りのスリムな艇を滑らせて、近づいてきたと思ったら乃々花の足下に姿を消し、橋をくぐって去っていった。

 ふと、気持ちがゆるんだのも束の間。
 いきなり体に衝撃を受けた。
 突き飛ばされ、よろけて転びそうになり、欄干をつかんで持ちこたえた。
 何事が起こったのか不明だったが、手を見たらバッグがなかった。一瞬遅れて、腕にもぎとられた感覚があったと気づき、ひったくられたと理解する。
 橋の上に目をやると、灰色の後ろ姿が、真っ赤な物体を持って逃げてゆく。乃々花のバッグだ。
「待って!」
 追いかけたが、離されていくばかりに思えた。
「だれかその人、つかまえて。どろぼう! ちょっと待ちなさい」
 続けざまの叫びはほとんど奇声になっていた。足がもつれ、息が上がる。
 我ながら、無様だ。
 お願いやめて、これ以上、ばかにしないで――。
 だれにあてて願ったのか、自分でもわからないまま体を折って、ひざに手をつく。
 すると、前方で声がした。橋を出たところで、だれかが灰色の男を組み伏せている。細身の青年のようだった。

 止まった足を動かして、急いで乃々花が近寄ると、青年は片ひざを立てた状態で、すでに男からバッグを取り返し、ふり向いて「はい」とそれを手渡してくれた。
 テーブルの醤油でも取ってくれたかのような気安さで。
 水色のパーカーにブルージーンズ。若き日のデヴィッド・ボウイを灰汁抜きしたみたいな、こざっぱりとした面立ちである。
「だいじょうぶ?」
 鼻にかかったハスキーボイスで、その言葉はしかし乃々花ではなく、灰色の男に向けられていた。優しさを含んだささやきだった。
 灰色の男は地面に両手と両ひざをつき、体で荒く息をしていた。薄汚れたブルゾンによれたスラックス、半白の伸びた髪は乱れている。七十代くらいだろう。
 盗られたほうの乃々花ではなく、盗った男をいたわっているのに軽く引っかかりを覚えたものの、青年の声への興味がそれに勝った。
 魅力的な声である。
 もう一度、聞きたい。その一心で次の言葉を待っていた。

 彼は男の背をさすりながら、臆面もなく乃々花を見上げた。
「ねえ、もしも、なにもなくなっていないなら、この人を許してあげていいかな。野々辺(ののべ)乃々花さん」
「どうして」
 フルネームを知っているのか。
 目を丸くする乃々花を横目に、「そりゃあ、ねえ」彼はほこりを払って立ち上がる。
 かすかに、焼きたてのパンのにおいがした。
「バイトの初日の挨拶で、『ののべののかなんてふざけた名前ですみません』って言ったでしょ。めっちゃインパクトあったから、一発で覚えた」
 瞳が無邪気に笑んでいる。色素が薄いのか、異国人めいた輝きがある。薄切りのレモンを浮かべた、アイスティーを思わせる色。
「あ」
 その瞳に思い当たった。同じパン屋のベーカリーで働くスタッフだ。
 厨房では白い作業帽をかぶってさらにマスクをしているから、素顔を見てもすぐにはピンとこなかった。そもそも売り場担当の乃々花は言葉を交わす機会がほとんどなく、二、三度、店から自転車で帰る姿を見かけたことがあるだけだった。
 でも、たしかレイちゃんと呼ばれてパートのおばちゃんたちに人気がある。
 彼は乃々花の表情を読み、はは、と短く息を吐いた。
「オレ、的場礼(まとば・れい)です。それで」
 許してあげてもいいだろうかと再び尋ねる。
 乃々花はバッグの口を開け、ちらりとなかをあらためるなり同意した。
 なに一つ盗られていないし、考えてみればバイト帰りで、たいして大事なものなど入っていない。化粧ポーチにハンカチ、ティッシュ、財布は千円札数枚と小銭しか入れていないふだん使いのミニウォレットだ。スマホはトレンチコートのポケットにある。
 バッグがなくなってもさして困らないはずなのに、なぜ、あんなにも必死で追いかけたのか。

 この町の景色には、いかにも似つかわしくないデザインの、真っ赤なバッグを握りしめ、きまりの悪い思いでいると、別な男の声がした。
「まじめそうな方なのに。あなた、どうされたんですか」
 小柄な老紳士が、灰色の男を助け起こして、話しかけている。老紳士は小島と名のり、
「なにかお困りでしたら話をお聞きしましょうか」
 と、男の顔をのぞきこんだ。
「なんだよ!」
 唐突に男は吠えた。
「善人面しやがって」
 小島は動じなかった。小さくうなずき、ただ黙して男の顔を見つめている。
 やがて、男が鼻をすすり始めた。
――人並みに働いて生きていれば、年老いたあとは国が面倒をみてくれると信じていた。それなのに、年金は思っていたよりずっと少ない。貯金なんかすぐに底をついた。働きたくても仕事はない。息子も娘も住まいは遠く、どちらも暮らしは苦しいようで迷惑はかけられない。女房は死んだ。この国は金持ちのためにあるのか。
 苦々しく、男は一気に吐き出した。
 小島は静かに聞いている。
 口を開いたのは礼だった。
「ないものばっかり見ていたら、どんどん不幸になっちゃうよ」
 さらりと歌うように言う。
「ないものを数える前に、自分にあるものを数えてみなくちゃ」
「なんだと」
 男はすごんだ。
 礼はひるむふうもなく、
「オレだって、親なし、金なし、正規雇用の職はなしで、けっこうないものずくめだよ」
 言い切ると、唇を引き結んで男を見据えた。
「でも、人のものを盗もうとは思わない」

「まあまあ礼ちゃん。この人はいま、つらいんだから」
 割って入ったのは小島だった。
 自分と礼は、同じプロテスタント教会に通っているクリスチャンフレンドであると前置きし、この子のことは小さいころから知っているけど、それは苦労してきたんですよと説明する。小島はいったん声を強め、
「とにかく」
 今度は柔和にあとを続けた。
「ひとりで悩むのはよくないから。あなたも都合のいい時に、よければ教会へいらっしゃい。すぐそこなんですよ。小さいけど一応は正統的なキリスト教会ですから、変な勧誘なんかはありません。ちょっと待ってて。案内をとってきます」
 そして、小走りに離れて行く。

 男は話が呑みこめないのかきょとんとしており、微妙な温度の静寂が、礼と乃々花に降ってきた。

(2へつづく)

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