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孤独を語ることはなぜ“許されない”のだろうか


1.振り返り
 孤独についての定義や考えは、


以前述べたものがあるので見ていただきたい。

2.孤独の背景
 孤独というものは「人生」における重要なエッセンスとなるものである。1人という時間は、自分を見つめたり、世界を見つめ直す機会を与えてくれる。しかし、長い孤独は心や身体を蝕んでしまう。
 
 “長い孤独”にぶち当たったとき、孤独を共有したり話したりする行為はどのように考えるだろうか。僕自身は、孤独について発信することが多い。発信をしなければ孤独は続いてしまうと考えているからだ。

 近年は、特に人間関係の希薄と過剰さが問題になっている。原因の一旦は、過度な情報化社会であることなどがあげられるだろう。「人」の中身が情報化社会によって極度に可視化にされ、TwitterやInstagramで簡単に人と繋がるようになった。また、LINEによって時間や場所を問わず人と関係を保ち続けることができるようになっている。
 このように、「人」がよく見えるようになったことで、嘘で煌びやかさを作り上げ(構築)してしまう要因があるだろう。他者との一定の距離感を保てなくなり、過剰になるか希薄になるかの一方を選択するしかできなくなっているのではないだろうか。こうしたことを反映しているのか、最近、NHKで「ひとりぼっち」について考える番組が放送されている。
 社会の中で、誰もが人間関係の過剰さや希薄さに光が当たっているにもかかわらず、実際に「孤独」を取り上げると問題が生じてくる。

3.孤独に対するイメージ

孤独について口にすると人が離れてゆき、孤独について語ろうとすると心の問題だと言われる(ネガティブというスティグマを受ける)、孤独が心を覆っていると人の輪には入れなくなってしまう(禁止事項にひっかかるような)

 これは一体、どのような問題が生じているのだろう。そして、差別的な思考に陥り正当化してしまうのだろう。

 そもそも、「孤独」に対して“いい印象”はもっていない。それどころか孤独の渦中にいる人間をさらに排除する傾向がある。自分に火の粉が降りかかってくるのではないだろうかと言わんばかりである。
そして1人でいる、という状況にも様々なプロセスが原因と結果があるということ考えようとはならない。全てが自己責任に帰結するわけではないのに、「すべてが自己責任なのだ!!」という決めつけをする人が多い。また、弱さやコミュニケーション能力の低さ、人との距離をつかめない生育の問題であると決めつけてしまう風潮がある。

 こうしてしまう背景には、人をカテゴライズしなければ理解できない「弱さ」の表れ、自分の世界で起こることは自己責任しないといけないと封じ込まれた「環境」であったこと、それぞれ違ってそれぞれの付き合い方を模索できない「距離感」のつかめなさがあるのだろう。

 つまり、それも「孤独」なのかもしれない。孤独であることに目を向けずに、繋がることに盲目的になり、その結果得られた人間同士の繋がりをさも「正しい」ものだと決めつけてしまう。

 そうはいっても、「群れを成したもの勝ち」というものは、孤独のなかでの辛さと弱さを隠すためによる攻撃のスパイラルであると感じ、とても悲しいものである。

夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。