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連載小説「クラリセージの調べ」3-8

 情報は目に入るものの意味を変えていく。

 後は焼くだけのグラタン皿二枚にサランラップを掛けながら、自分が市川家を見る目が変わってしまったことを静かに受け止める。

 昨日、瑠璃子るりこが御親切にも見せてくれた松重裕美まつしげゆみの写真が脳裏をちらつく。気品のある顔立ちの瑠璃子と並ぶと、両目が離れ、鼻の下に大きなほくろがある特徴的な容貌が目立っていた。だが、裕美の溌溂とした表情は、瑠璃子の存在を霞ませるほどの生気を放っていた。結翔くんとともに、学級委員としてクラスを引っ張っていく彼女が容易に想像できる。

 結翔くんが、妻としてこの家にいてほしいと望んだのは、彼女だ。私は、家族が納得した家の娘という理由で、そして市川家の後継ぎを産むことを期待されてここにいる。そのことは、高波のような怒りでも、深海の底にいるような絶望でもなく、空虚さだけを残した。

 30代も半ばになれば、すべての人が、人生最愛の人と結ばれるわけではないと学んでいる。私も結翔くんも、その悲しみを胸の奥に隠し、大切にしたいと思える人と家族になった。彼は、私と築く家庭を守ろうと、実の母と対峙してでも私に味方してくれる。そんな彼だからこそ、私も応えたい。そして、子供を、願わくは市川家が望む男児を授かりたい。


 結翔くんは、大きく重いグラタン皿を両手に持ち、母屋に運んでくれる。その背中は広く、二の腕と肩はがっしりと逞しく、皿がおもちゃのように見える。私は出来立ての唐揚げとハンバーグを盛り付け、ラップを掛けた皿を持ち、彼の背中を追う。

 母屋では、長女のつむぎさんが台所でリズミカルに野菜を刻み、夫の貴史たかふみさんがテーブルの上にコンロと鍋を設置するのに忙しい。高校の化学教師の彼は、こうした作業が得意なのか、その背中は朗らかだ。家でも、快く家事と育児を手伝ってくれる旦那様なのだろうか。

 お義母さんと次女のきぬさんは、背中に開放感を漂わせ、ソファに掛けて大声で談笑している。絹さんの夫のやまとさんは、ブロックでタワーを作る皇太郎くんと悠くんの近くに胡座をかいている。義実家に来て居心地が悪いのか、子供の世話が苦手なのかはわからないが、気の毒なほど所在なさそうに映る。

 床に座れないおじいちゃんは、頬に冬の陽を浴び、椅子に掛けて家族を眺めている。小さな身体でも、ゴッドファーザーのような存在感がある。お義父さんは、ちょうど届いた出前の握り寿司を受け取り、玄関から運んでくる。鼻歌を歌いながら、テーブルに寿司桶を並べる姿は、久々の家族の集まりに意気揚々としていることが伺える。

 コロナ感染防止対策のために全員がマスクを掛けているが、久々の食事会を待つ幸せな家族に映る。誰も口にしないが、ここに欠けているのは結翔くんの息子、市川の姓を名乗る男子だ。それが揃って、完璧な家族になるのだろう。

                 ★

 北風が低く唸り、分厚い雲の流れが部屋に差す陽の量を調節する。お祝いの乾杯が済み、鍋の具材が煮え始め、マスクを外した食事が始まる。醤油を取ってくれ、取り皿がもう一枚欲しいと言葉が飛び交い、箸や食器が触れ合う音がし、耳を塞ぎたくなるほど賑やかだ。

 おじいちゃんは、食べやすいように刻まれた海苔巻きをフォークで口に運ぶ。耳が遠いので、会話のスピードについていけないが、いつも以上に瞳に光が宿っている。

 結翔くんが、隣室から丸いちゃぶ台を運んできて、悠くんと皇太郎くんを呼び寄せる。

「姉ちゃんたち、子供はこっちで見てるから、ゆっくり食べなよ」
 結翔くんは、取り皿に子供の好物を取り、ちゃぶ台に運ぶ。鍋からお椀にとってきた肉と野菜は、二人が火傷をしないよう、ふーふーと冷ましてから食べさせている。熱かったときのために、二人のコップに麦茶を注いでおくことも忘れない。私よりずっと気が利いている。

 皇太郎くんがお肉が熱いとぐずっても、悠くんがお箸を落としてしまっても、彼は嬉々として世話をする。自分が食べる暇などないのに、嫌な顔一つ見せない。初めて見た柔和な表情に、彼の子供への思い入れを見せつけられる。彼をお父さんにしてあげなくてはという思いを煽られ、年末の人工授精に向けて、体調を整えなければと決意を新たにする。

 絹さんが箸を持ったまま声を上げる。
「こんなにゆっくり、温かい食事がとれるのは本当久しぶり。 あ~、実家最高!」

 向かいに座る倭さんは、気まずそうに烏龍茶のグラスを口に運ぶ。

「倭くん、絹にご飯くらいゆっくり食べさせてあげてよ。この子は、あなたと同じように仕事をしながら、家事と育児、あなたのお母さんの世話までしているのよ」

 お義母さんの強い口調に、倭さんは「すみません」と小さくなる。

 お義母さんは、口から米粒を飛ばす勢いで説教を続ける。
「これから、二人目ができるんだから、協力しないと乗り越えていけないわよ。あなた、皇太郎の遊び相手になるだけで、朝の支度も、お風呂も、寝かしつけもしないんだって? 家事だって、あなたのできること、たくさんあるでしょう? 自分のお母さんの世話ぐらいできなくてどうするの」

 台所で追加の野菜を刻みながら、紬さんが私に耳打ちする。
「絹の家、去年、倭さんのお父さんが亡くなって、一人になったお母さんが同居するようになったの。倭さんは家事育児を全くしてくれない上に、お義母さんも高齢で手伝ってくれないんだって。逆に、絹がお義母さんの食事や買い物、通院の世話をさせられてるそうよ」

「そうだったんですか……」

「コロナ騒ぎのときは、長野に嫁いだお義姉さんの家にお義母さんを預かってもらったらしいけど」

「本当に大変だったのですね。私、何も知らなくて」

「事情があるにしても、澪さんに辛く当たったり、皇太郎くんの世話を押し付けていい理由にはならないけどね……」

 グラタン皿をオーブンに入れながら、孤軍奮闘している絹さんが、結翔くんに守られている私に辛く当たりたくなる気持ちがわかった。二人目ができたら、皇太郎くんに手が行き届かなくなるだろう。それを知ると、以前よりも、優しい気持ちで接することができる気がした。

 ようやく台所が落ち着き、私と紬さんは、鍋の番をしながら握り寿司を頬張る。

「澪さんのお料理とても美味しい。ハンバーグも唐揚げも、あっという間になくなっちゃったわよ。澄まし汁もお浸しもいいお味で、おじいちゃんも残さず食べたわ」

「よかったです。お義姉さんとお義兄さんに手伝っていただかなければ、どうなっていたかわかりません。今日は本当にありがとうございました」

「いえいえ。私たちも、食べられるときに食べておこう」

「そうですね。そういえば、いま私たちが住ませていただいている離れは、結翔さんが30歳の頃、建てたのですか?」

 何も知らないふりをして尋ねる私に、紬さんはねぎとろ軍艦を飲み込んでから答える。
「そうなの。結翔が家庭を持ったとき、この家で同居するのは流石に狭すぎる、お嫁さんが来てくれないよねという話になって、お父さんが建てると決めたの。住み心地はいかが?」

 顔色を変えず、滑らかに話す紬さんに、私も合わせる。
「本当に快適です。結翔さんが、プライバシーを保てるように配慮してくれて、とてもありがたいです」

 グラタンが焼けたので会話を中断し、私はミトンをはめて取り出す。テーブルの寿司桶や皿を片付け、場所を確保してから出そうと、ひとまずちゃぶ台に置いておく。紬さんは、鍋にしめのうどんを入れてくれる。

 空になった寿司桶を重ねて運ぼうとしたとき、悠くんの甲高い声が響く。
「あついよおっ! うわぁ~ん!」

 結翔くんがトイレに立ち、目を離していた間に、悠くんがグラタン皿に触ってしまったらしい。

 貴史さんが悠くんを抱き上げて、洗面所に直行し、火傷した指を冷水にさらす。

「ごめんなさい、私の不注意でした!」
 私は冷蔵庫から氷を取り出し、勢いよく鍋にあけ、洗面所に持っていく。

「気にしないでください。任せきりで、目を離していた我々がいけないんです」
 貴史さんは悠くんの手を氷が入った鍋につけながら、縁なし眼鏡の奥の目を優しく細める。
「そうよ、澪さん。すぐに冷やしたから跡は残らないし、悠も触ると熱いと学ぶ機会になったんだから」

「こんなこと、日常茶飯事なので、気にしなくていいですよ」

「本当に申し訳ございません」
 二人の心遣いが胸に沁み、涙が出そうになるのを堪える。

「何事?」
 トイレの水を流す音とともに、結翔くんが個室から出てくる。

「結翔、あんたが、子供たちがグラタン皿に触らないように見ていなかったから、悠が火傷したのよ!」
 紬さんが悠然と出てきた結翔くんを一喝する。

「私が子供たちの触りそうなところに置いてしまったのが悪いの」

「澪さんのせいじゃないの。見ていると言った結翔が責任を持たないのが悪いんだから」
 どこまでも優しい紬さんの言葉に、自分の未熟さを実感させられる。

 居間に戻ると、絹さんが聞えよがしにお義母さんに言う。
「子供が触りそうなところに熱い皿を置かないのは常識だよね。ファミレスのバイトのお姉さんだって、知ってるのに」

「子供がいない人はわからないのよね~」

「自分の子供を任せて、食べてばかりで、何を言ってるんだ! 澪さんは、ろくに食べずに働いてくれているんだぞ」
 お義父さんが、恩を売ったと言いたげに、ちらりと私を見るのが癇に障る。

「実家に来たときくらい、いいでしょ! うちは旦那が何もしないから、ご飯をゆっくり食べる余裕なんてないんだよ」

 私は、自分のせいで、険悪になってしまった空気を一新しようと声を上げる。

「皆さん、そろそろデザートにしましょう!」

 結翔くんに手伝ってもらい、冷蔵庫で冷やしておいたパウンドケーキを切ってお皿に盛りつける。アイスクリームスクープですくったバニラアイスをパウンドケーキの上に乗せて、テーブルに運ぶ。用意しておいたフルーツ、ホイップクリームは、各々が好きなように飾ってもらうことにする。飲み物は緑茶と紅茶のティーバッグとドリップコーヒー、子供たちには麦茶を用意する。

「いちごのケーキじゃないの?」
 運ばれてきたパウンドケーキを見て、皇太郎くんが悲しそうに顔を歪める。

 私が用意したフルーツは、ブルーベリーとカリフォルニアオレンジ、缶詰のみかんとパイナップルだ。

「ごめんね。いちごは用意しなかったの」
 私は皇太郎くんの前に座り、目を合わせて謝る。皇太郎くんの目の縁が赤みを帯び、今にも泣き出しそうだ。

 絹さんが駆け寄ってきて、皇太郎くんの肩を抱く。
「うちのお食事会のデザートは、いつもいちごの乗ったホールケーキなの。こうくんは、それを楽しみにしてたんだよねっ?」

 お義母さんが同調するように嫌味を言う。
「私に一言聞いてくれれば、教えたのにね~。この家の伝統だってあるのに」

 すみませんと謝る私を援護するように、紬さんが口を開く。
「澪さんにお料理のアドバイスをしたのは私。ホールケーキのことを言わなかったのも私。そんな伝統はうちにないでしょう。今までだって、カットしたチョコレートケーキのこともレアチーズケーキのこともあったじゃない」

「今日は私が妊娠したお祝いなんだよ。こんなケーキで、何か馬鹿にされた気分」

「絹姉ちゃん、言い過ぎだ! 澪は昨夜から姉ちゃんのためにパウンドケーキを焼いていたんだぞ。事前に絹姉ちゃんと皇太郎の好きなものを聞いて、グラタンやハンバーグを作った。ほとんど寝ないで準備してくれたのに、その言い方はないだろ」

「絹、皇太郎も大きくなったんだ。そろそろ、作ってくれた人の気持ちを尊重することを教えなくてはいけない」

「お父さん、皇太郎はまだ4歳だよ! 何で、そこまで澪さんを庇うの!」

 私のせいで、何度も雰囲気が悪くなることに耐えられず、深く頭を下げる。
「絹さん、倭さん、皇太郎くん、大変申し訳ございません。いちごの乗ったホールケーキを用意すべきでした。せっかくのお祝いなのに、私の配慮不足でご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」

 私の不手際で、悠くんも皇太郎も泣かせてしまったことも、重くのしかかる。裕美なら、こんな雰囲気にしなかったかと思うと、ますます自己嫌悪が強くなる。

 絹さんは、私を一瞥し、ぼそりとつぶやく。
「これじゃ、産休で里帰りしても、気を遣って寛げなそう……」

 考えが及ばなかったが、絹さんが里帰りしてきたら、敷地内に彼女がいる生活が続くのだ。できるだけ、母屋に近づかないようにしようと心を決める。

「あ、お母さん。後で相談しようと思ったけど、私が出産で入院中は、こうくんをこっちで預かってね」

「まあ、いいけど。子供とずっと一緒の生活なんて何年ぶりかしらねえ……」
 お義母さんは、絹さんや皇太郎くんに気付かれないように小さく溜息をつく。

 それを見逃さなかった結翔くんは、ぱっと目を輝かせ、衝動的に提案する。
「その間、夜だけ皇太郎をうちで預かろうか?」

 私に何も聞かない提案にぎょっとし、口を挟もうとするが、それより早く絹さんが声を上げる。

「あー、それいいね。結翔は、皇太郎が生まれたときから、かいがいしく世話をしてくれたしね。あんたなら任せられる。こうくん、お母さんが入院してるとき、結翔おじちゃんの家にお泊りだって。澪さん、夜だけならいいよね?」

「ほんとうに? やったー!」

 目を輝かせて、結翔くんの足元にまとわりつく皇太郎くんを前に、私は何も言えなくなる。

「皇太郎、そのときは、おじちゃんと一緒に寝ような」

 子供のことになると、結翔くんは私のことなど見えなくなってしまうのだ。

 片づけを済ませて離れに戻ると、疲労が津波のように押し寄せてくる。シャワーも浴びず、リビングのソファに倒れこむ。

 母屋から、結翔くんと義両親が談笑する声が聞こえてくる。今夜は、結翔くんと同じ部屋で眠るのもしんどい。人工授精を前に、精神をかき回されれば、ホルモンバランスの乱れにつながるとわかっているが、気持ちを立て直せそうにない。