観察・仮説・工夫に驚く

子どもの成長や工夫に驚き、喜ぶ話をすると、共感の声を上げ、「ほめて伸ばす、ですね!」とコメント頂くことが多々。
せっかく共感してくれたら、そこは「そうですね」と合わせるのがマナーだけど、理系のサガなのか、「いえ、『ほめる』のとは違うんですわ」と揚げ足を取ってしまう。申し訳ない。

「ほめて伸ばす」には、二つ課題があるように思う。親がほめてつかわす「価値基準」がすでに用意されていること。もう一つは、伸ばす方向が親に決められてしまった感をどうしても与えがちなこと。子どもの性格にもよるが、ほめた途端それをやらなくなる子どもも少なくない。なぜか。

ほめられた途端、子どもは(親との関係性にもよるが)親のコントロール下に置かれそうなことを敏感に察知する。「それをやり続け、伸ばし続ければ『ほめる』ご褒美を上げるよ、さあ、どうする〜?」という圧を感じる。その包囲網から慌てて子どもは逃げようとしてしまう。

ほめられるのは嬉しい。でもコントロール下に置かれるのは大キライ。こうした子どもは多い。ほめる言葉の裏に「ほめられて嬉しいだろう、だったらマンガやテレビやゲームには手を出すのをやめて、そちらの方向に進むがいい」という圧と包囲網。これを子どもは実に敏感に察知する。

だからほめられた途端、やる気をなくすケースが少なくない。親や指導者は慌てる。「あんなに上手にやってたのに、もうやらないの?面白いよ!またやって見せてよ!」と勧めれば勧めるほど子どもは圧と包囲網を感じて、逃げる。ある種の価値規準を当てはめられることを拒否する。

「ほめる」という言葉は、どうしてもこうしたことが起きる確率を高める、解像度の悪い言葉のように感じて悩んできた。で、私が比較的解像度高く感じる言葉として「工夫(発見、挑戦)に驚き、面白がる」を使うようになった。

「驚く」の場合、子どもがどう出るかの方向性を全く定められないから驚かざるを得ない。「ほめる」はどうしても価値規準がそこにあり、しかも将来にわたってそれをしなさいみたいな圧力が出やすいけど、「驚く」はそうしたコントロールが不能。想定外だから。

ある価値規準で驚くことがあるとする。でも、今度は同じ価値規準で驚くことは難しくなる。驚くとは、想定外のことだから。このため、子どもは、親を、大人を驚かせたい場合、別ジャンルで驚かそうと企む可能性が高くなる。驚くという反応は、同じことではうまく引き出せないのが子どもにもわかるから。

それに、私は特に「工夫」に驚くようにしている。今まで試したことのない挑戦をしている場合、「このやり方、初めてだよな?どうやって思いついた?」と驚く。すると子どもは得意満面。この次も、できる限り試したことのない工夫で驚かそうと企むようになる。

その工夫は何も大掛かりなものでなくて構わない。うまくいかなくても構わない。工夫しようとした。そのことが大切。工夫するには、まず観察しなければならない。観察後、「こうすればうまくいくんじゃないか」と仮説を立てなければならない。工夫は観察と仮説が必要となる行為。

私は、どう観察し、仮説を立てたのかに驚き、面白がるようにしている。そうすると、子どもはこれまでとは異なる角度から観察しようとする。これまで立てたことのない仮説を立てるようになる。その結果、新しい工夫をすることになる。それがうまくいこうかいくまいが、私にはどうでもよい。

観察の新しさ、正確さに舌を巻く。仮説の面白さに驚く。すると子どもはどんどん観察し、仮説を立て、工夫を重ねる。こうした子どもは問題解決能力がどんどん伸びていく。いつか必ず解決の糸口を見つけるからだ。だから私は結果を気にしない。価値規準も持ち込まない。

どんな観察をしたのか。どんな仮説を立てたのか。どんな工夫を重ねたのか。そこに驚き、面白がれば、子どもはますます観察・仮説・工夫を重ねる。そしたら子どもは勝手に伸びる。どっちに伸びるかはコントロールできないけど、多方面で応用可能な課題解決能力が伸びる。

だから、私は特定の才能を伸ばそうというつもりがあまりない。観察し、仮説を立て、工夫する人間は、必ず伸び続ける。どんな分野であっても。あとは、自分に適性のある、しかも楽しんで取り組める分野を選べばよいだけ。観察・仮説・工夫は、どんな分野にも通じる能力なのだから。

観察・仮説・工夫を重ねる意欲を高めるには、「ほめる」よりも「驚く」の方が適性がある様子。「驚く」には価値規準を持ち込みにくいし、どの分野で伸びるかを規定せずに済む。子どもは自分の好きな分野で観察・仮説・工夫をすればよい。そんな風に考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?