子育てが難しくなるのは思い込みのせい?

私は、子どもの成績をよくしようなどといった「結果」に囚われないように気をつけている。結果を気にするようになると、学ぶことが楽しくなくなるからだ。何より大切にしていることは、学ぶことを楽しむこと。学ぶことを楽しめれば、生涯楽しめると私は考えている。

学ぶことを楽しんでいれば、勝手に学ぶことになる。楽しいからついつい続けてしまう。人間は、知らなかったことを知った時、できなかったことができた時、嬉しくなる仕組みがあるらしい。ならば、知ること、できるようになることを楽しむ気持ちさえ大切にしていれば、子どもは成長し続けるように思う。

これはどうしたら解決できるだろう?不思議に思い、観察する。観察結果を踏まえて、どうすればよいか仮説を立てる。それを試してみる。その結果をまた観察して仮説を立てて、実験する。この観察・仮説・実験を繰り返すと、自然に問題は解決され、能力が開発されていくもののように思う。

ならば、学ぶことを楽しみ、物事を解決していくことを楽しんでいれば、子どもは勝手に成長し、能力を開発していくように思う。どこまで能力が開発されるかはわからない。それは本人次第。でも、楽しんでいれば飽くことなく続けるから、その子の最速最大の能力開発になるように思う。

だから、子育ては「楽しむ」のが一番だと思う。それさえできれば、子育てはそんなに難しくないものだと私は考えている。けれど、それを難しくしてしまうものが私たちの中にある。思い込み。信じて疑わない信念。これらが「楽しむ」ことを邪魔してしまう。

多くの人が、勉強とはつらく苦しいものだと考えている。ハングリー精神がなければその苦しみを乗り越えることはできない、と考えている。ハングリー精神は能力を伸ばす上で重要だ、とも考えている。あらゆる成長には苦しみが伴うものだ、と考えている。これらは「思い込み」ではないだろうか。

学ぶことは楽しいことだ。テレビや動画で知らなかった知識を得たらうれしいし、友達に教えたくなる。私たちは知識を得ること、できなかったことができるようになることを嬉しく思う仕組みが備わっている。なのになぜ「勉強はつらく苦しい」と思っているのだろう?おかしいと思う。

ハングリーであればなるほど、おなかを満たすため、嫌なことも乗り越えて頑張ることはあったのかもしれない。でも、ハングリーでなければ人は動かないのかというと、そうでもない。人は楽しいとそちらに動く。別にハングリーさは必須ではない。

つらさ、苦しみは成長する上で必須だ、という考え方も、思い込みではなかろうか。楽しんでいると、息が苦しくてもそんなことに構っていられずに楽しみたくなる。つらさをつらさと思わず、苦しみを苦しみとも思わずに楽しんでしまう。別につらい、苦しいと思う必要はないように思う。

楽しんで取り組めば自然と能力は開発される。少々の困難は、むしろ達成感を強めるための味付けでしかない。楽しんで取り組めばよい。楽しんで取り組めるようにするにはどうしたらよいか、だけを考えれば、私はいろんなことがすっきりシンプルに見えるように思う。

親として、子どもが学び、成長していく様を見て驚き、喜んでいれば、子どもは学ぶこと、成長すること自信を楽しむようになるように思う。あまり難しく考えなくてもよいように思う。難しく考えてしまうのは、私たちの中の思い込み、信念が邪魔してしまうからだろう。

私にとって、理想の親像は、「赤毛のアン」のマシューや、「大地の子」の養父、陸徳志。二人とも不器用で、子どもを熱心に教育したという感じではない。ただひたすら子どもの成長を、目を細めて眺め、驚き、喜んでいた好々爺でしかない。でも、それが大切なのだと考えている。

アンは孤児院で過ごし、つらい環境で生きてきた。そんな娘が養女にもらわれて明るく成長したのは、マシューのように、自分の一挙手一投足に驚き、喜んでくれる存在がいたためではないか、と思う。こんな存在がいたら、子どもは「この人を自分の成長で驚かしてやろう」と願うようになると思う。

陸徳志もそう。日本人残留孤児である主人公の成長に目を細め、驚き、喜ぶばかり。主人公は養父を喜ばせようと、必死に学業に努める。様々な困難に遭っても、くじけない心を維持できたのは、この養父の存在が大きかったように思う。

なぜマシューや陸徳志は、そんなにも(私にとって)理想的な親になれたのだろうか。実は二人とも、子どもを一度捨てようとしている。マシューは、本当は男の子を養子にもらうつもりだった。それが手違いで女の子が来た。それで、子どもを欲しがっていた、でも厳しい家にアンを手渡そうとした。

陸徳志は、残留日本人孤児である主人公を、戦乱の中にある中国でとても養うことはできないと思い、市中に置き去りにして捨てようとした。しかし道中、どうしても諦めがつかなくなり、戻り、我が子として育てる決心をする。

マシューも陸徳志も、一度は我が子を捨てようとした負い目を感じていたのだろう。そもそも自分は父親だと名乗る資格はない、捨てようとしたのだから、という負い目。しかしそれがあったからこそ、子どものためにできることは何でもしよう、と覚悟を決めることができたのではないか。

しかしマシューも陸徳志も、子どもに無理強いすることはしていない。その資格が自分にはない、という気持ちがあったからだろう。ただひたすら、子どもの成長を眺め、その都度驚き、喜ぶばかり。でもそれが何より、子どもの心の支えになったのではないだろうか。

どうか無事に育ちますように。どんな困難があっても、明るく生きていける人間に育ってくれますように。そうした祈りを、マシューや陸徳志からは感じる。こうした祈りは、多くの母親が乳幼児に抱くものと同じだと思う。だから多くの母親は、乳幼児への接し方は理想的だと思う。

男親は、こうした母親たちの乳幼児への接し方、あるいはマシューや陸徳志の子どもへの接し方をマネすればよいように思う。ただひたすら子どもの健やかな成長を祈る。彼らが楽しんで生きることを祈念する。そうした気持ちでいると。

子どもが駆け寄って「ねえ、見て見て!」と言ってくる。「こんなことできるようになったよ!」と。工夫し、発見し、挑戦したことを教えてくれる。祈りが通じた「奇跡」が起きた、と驚かずにいられなくなる。喜ばずにいられなくなる。そうして、子育てを楽しめばよいのだと思う。

子どもを粘土細工のようにあれこれ設計できるなどと思わず、子どもが成長していく様に驚き、喜ぶ。それが子育ての大原則のように思う。すると子どもは、大人を驚かそうとますます学ぶことを楽しむ。学ぶことを楽しむ人間は、成長が止まらない。ならば、それはその子にとって最強の状態。

他人と比較する必要はない。その子が楽しんで生きていればそれでよい。子育ては、まずそこが出発点になっていた方がよいように私は思う。

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