どうしたら子どもは本を読むようになる?

「どうやったら子どもが本を読むようになりますか?」と聞かれた。一つ言えることは、読ませようとすると読まない。そうなる確率が非常に高い。「これ面白いよ、読んでごらんよ」と勧めるものに限って、読みたくなくなるって、大人でも起きることが多い。

私は子どもの頃、学研の図鑑にハマった。古本市で懐かしい図鑑を見つけたので、それを買って息子に渡した。「これ、お父さんが子どもの頃、大好きでハマった本なんだ。読んでみて。面白いから。」
結果、ページを開こうとさえしなかった。まあ、うちの子は二人ともアマノジャク型だからよけい。

ところが、知人がプレゼントしてくれたピクチャーペディアという図鑑は、しゃぶり尽くすように読んだ。MAPSという世界の国々を紹介した本も、文字通り擦り切れるまで読んだ。私が勧める本は読まないのに、私以外の人がくれる本はむしゃぶりついて読む。なぜ?

息子は「名探偵コナン」が大好き。その中で三国志エピソードが出るらしく、興味を持った。で、横山光輝「三国志」を手に入れて渡して、数冊は読み、「劉備玄徳ってすごいねえ!」と目を輝かせた。さて、その次がいけなかった。「なんの、孔明が出てからもっと大興奮だよ!」と語って聞かせた。

すると全く読まなくなった。
他方、勧めもせず、単に親が楽しんで読んでいた「もやしもん」や「百姓貴族」を、うちの子らは何度も何度も繰り返し読んでいる。そうした経験から、どうやら子どもたちが本を読む法則が見えてきた。

子どもたちは私に「教えたい」、私を「驚かしたい」のだなあ、と。私が興奮して図鑑や「三国志」を勧めたとき、子どもたちはたぶんこう感じたのだろう。「ああ、この本についてお父さんはすでに詳しいんだな。だとしたら、僕以上にもう知っている。だとしたら、それを話してもお父さんは驚かない」と。

他方、わたしが読んだことのない本だったら、当然私はそれを知らないから「へえ、そんなことを書いているの?」「よくそんなこと知っているなあ」と素直に驚ける。息子は自分が何を学んだかを私に教えることができる。そして私を驚かすことができる。たぶん、それが楽しいのだろう。

「この本面白いよ」と子どもに勧めるということは、親はその内容をよく知っていて、むしろ親が子どもに語りかねない。それでは子どもは受け身になって面白くない。そのことを瞬時に子どもは悟るのだろう。だから勧められた本は読みたくないのだろう。

私は出張帰りにお土産として子どもたちに本を買ってくることが多い。表紙とパラパラめくった感じで面白そう、子どもが興味を持ちそう、なものを買う。けれど渡すときは「面白そうだから買ってきた」と言うだけ。中身は知らん、ということを明確に伝える。すると、むしゃぶりつくように読む。

どうやら、子どもは親も知らない世界を開拓したいらしい。そして自分の開拓した世界について親に教えて、親を驚かしたいらしい。ならば、その楽しみを奪ってはいけないのだろう、と今は考えている。その楽しみを存分に味わえるように、親の読んだことのない本を与えるとよいのかなあ、と思う。

ところで、最近は体験ブームらしい。それはたぶん以前からもあったのだろうけれど、以下の記事を書いたら過去にものすごくバズったので、そうした影響もあるのかもしれない。でも、「体験させる」のも要注意。
https://note.com/shinshinohara/n/nab00da2b2762?sub_rt=share_h

他人から「面白いよ!ぜひ体験して!」と言われると腰が引けるし、いざ体験しても「さほどでもなかった・・・」となること、ないだろうか。他人(親を含む)からお勧めされると、「さほどでもない理由」探しをしてしまう本能が人間にはあるらしい。なぜかお勧めされると楽しめなくなる。

教育熱心な親御さんが「子どもにはたくさん体験させよう」と思ったとして、それが体験「させる」という、子どもからしたら受け身、受動的な姿勢になってしまった場合、まあ、体験したは体験したけど、それで終わり、になってしまうことが多い。そこには感動があまりなかったりする。

恐らく、体験しただけではダメだ。「さほどでもなかった」体験として処理され、むしろ「大したことなかったよ」で興味を失ってしまうことがある。なぜそんなことになるのか?それは恐らく、受け身だから。「させられた」から。そのために「観察」することがなかったから。

何度も紹介しているが、ナイチンゲールに次の言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
観察をしなければ「体験」にとどまる。観察しなければ「経験」にならない。

たとえば、路傍の花を見た(目に入った)だけでは、せいぜいのところ、タンポポだな、と思うだけ。これでは「体験」でしかなく、そのうち忘れてしまう。でも観察するとどうなるか。花弁は何枚あるんだろう?真ん中を触ると黄色い粉がつくよ!裏側は緑色の(がく)がそっくり返ってるな。等々。

興味関心を持ち、観察すると、ただ「目に入る」だけでは気づかなかったようなことに気がつく。膨大な情報が語感を通じて入ってくる。観察とは、「自分が気づかなかったこと、知らなかったことを見つけようとすること」だと言ってよいだろう。観察しなければ、体験は経験にならない。

では、子どもが観察するようになるにはどうしたらよいのか?「着眼点」を示すことだと思う。子どもが興味を持って眺めていたら、花の真ん中に触れてみて「わ!黄色い粉がついたよ!なんだこれ?」と、着眼点だけ示して、子どもにあれこれ教えないようにする。

「根っこはどうなっているんだろう?」と「着眼点」を示したら、子どもは掘ってみたくなるかもしれない。掘る過程で、土は思ったより硬いと感じたり、タンポポの根が思いのほか深く根付いていることに驚かされることになるだろう。親は、子どもの発見に「ほう、ほう」と感心していればよいように思う。

そうして、「着眼点」を示すことで興味関心をともに抱き、「観察」することを促す。すると、子どもはしゃぶり尽くすように観察する。だからその時の体験は「経験」に昇華する。その時の経験は忘れられないものになる。そんな経験をしたうえでたまたま本を読んでみた時、おそらく感動することになる。

「花の裏にある緑色のやつ、あれ、『がく』っていうらしいよ!」と子どもが教えてくれるかもしれない。親も教えていないことを、自分の力で発見できたことに興奮して。親は、自力でそれを発見したことに驚き、関心すれば、子どもはますます本から「経験との符号」を探そうとするだろう。

日常生活の体験を、観察することで「経験」に変え、その時の強烈な記憶があるから、本を開いた時に「あのときのあの不思議なものは、そんな名前で呼ばれていたのか!」と出会いの感動が得られる。本を読むことを楽しくしてくれるのは、日常生活の観察、経験があるから。

何も非日常な珍しい体験をする必要はない。日常のありふれたことの中にも、私たちが気づいていない様々な現象が隠されている。私たちは「目に入る」だけで分かった気になっているけれど、観察しなければ気づきもしないものが、身の回りにたくさんある。それを観察し、楽しめばよいように思う。

では、どうやって観察を楽しめばよいのか?そのヒントになるのがレイチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」。
カーソンはその本の中で、甥のロジャーを連れて雨の中の森を探検する。その時、二人は滴の玉できれいに輝くコケを見つけた。二人はそれを「リスさんのクリスマスツリー」と呼んだ。

カーソンは生物学者だから、その気になればそのコケが何という名前で、どういう性質を備えるかを語って聞かせることが出来たろう。けれど、カーソンは「教えるということは、不思議に思い、感動することと比べれば大切ではない」と指摘する。教えるよりも何よりも、一緒に不思議に思うこと。

「リスさんのクリスマスツリー」の美しさに感動した子どもは、そのコケがどんな形をして、どんなサイズで、どんなにおいがして、どのあたりに生えていたのか、よく記憶することになるだろう。その上で本を開いたら、「これだ!」と気がつくことも簡単だろう。

でも、コケの分類についてその場でとうとうと語られたら、右から左へ流れてしまい、そのコケへの興味関心は失われてしまうだろう。興味関心は、「不思議だなあ」と思うところから始まるのだと思う。教える以上に、自然の不思議さ、神秘さに驚く感性、センス・オブ・ワンダーが重要。

日常のありふれた現象から不思議を感じ取り、その不思議を解き明かそうと観察する。その結果得られた経験は、本を読んだ時に、「お前はそういう名前で呼ばれていたのか!」と出会うことが増え、それが感動となり、本が楽しいものに変わる大きな理由になるように思う。

普段の生活から不思議を発見してはそれを観察することを楽しんでいれば、本を読むことの楽しみも味わうことになるように思う。だから、本を読ませようとするより、不思議を発見しては観察することを楽しむことが大切だと思う。

では、子どもが不思議を発見したり観察するようになるのは、どういうときか。親が変に教えようとせず、着眼点だけを示し、子どもと一緒に不思議がり、子どもが何かを発見したり教えてくれたら驚く。それをしていれば、子どもはごく自然にセンス・オブ・ワンダーを身に着けるように思う。

だから親は、子どもの工夫や発見、挑戦に驚くようにしていたらよいように思う。すると子どもは毎日のように不思議を発見し、それを親に話して聞かせようとするだろう。本でその現象を「再発見」したら、興奮して話してくれるだろう。親は驚く反応器、教えてもらう立場になりきればよいように思う。

本を読ませるのではなく、本が面白くてならない環境を整えることが大切なように思う。本が面白くなるには、日常の中で不思議を発見し、それを観察することを楽しむことだと思う。子どもがそれを楽しむには、親が驚き、子どもから教えてもらうことだと思う。

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